スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

変死&ライプニッツとレーウェンフック

2015-07-25 19:34:13 | 歌・小説
 奥さんに対する先生の秘密が何であるかは分からないということの根拠として示した上十九のテクストには,少し気になる部分があります。それは奥さんが,先生と仲がよかったKが,卒業を目前にして急死したことを私に教えた後で,囁くような声で,Kが変死したと言っている部分です。
                         
 Kは自殺したのです。ところが奥さんは自殺したとは言わず変死したと言ったのです。言われる側からすれば,Kが自殺したと言われるのと変死したと言われるのとでは,受け止め方に違いが出るのではないかと思うのです。だとすると,奥さんは何らかの理由があって,Kは自殺したと言わずに,Kは変死したと言ったと解することも可能になってくると思われます。
 その後で奥さんは,Kがなぜ死んだかは分からないと言い,おそらく先生も分かっていないという推測を続けています。もしもKが自殺したと奥さんが言ったのだとしたら,これを聞いた私は,Kの自殺の理由が奥さんには分かっていないし,先生も分かっていないと奥さんは判断していると解するのは間違いありません。ところが,Kが変死したと言われた後でこう続けられた場合,私がKは自殺したと判断するとは限りません。もしかしたら変死した理由,すなわちその死因が分からないと解してしまう可能性も残るように思います。
 続く上二十では私は事件の真相ということばを用いています。事件というからには変死を自殺と判断したように思えますが,執筆の時期を考慮に入れれば,この部分は再構成と考えられなくもありません。真相を奥さんは詳しく知らない上に,知っていることのすべてを私には話せなかったとなっていますから,その時点で私がKは自殺したと確定できたかどうか不分明です。この部分は必要があったから書いたけれども,話があった当時はこの会話を重くみてなかったという告白もあるので,なおさらその可能性があるように思います。
 Kが自殺したことを,私は先生の遺書を読んで初めて知ったという読解も,『こころ』では可能になっているのです。

 『宮廷人と異端者』では,レーウェンフックの顕微鏡による数々の発見が,ライプニッツの哲学,とりわけその中心を構成するモナドの概念に大きな影響を与えたことになっています。僕はライプニッツの哲学を探求することはしませんから,その点は考察しません。ただ,ライプニッツがレーウェンフックを知る契機の部分に興味深いところがあります。
 スチュアートによれば,1676年3月か4月,ライプニッツがまだパリにいた頃のメモに,デルフト出身の男による顕微鏡を用いた信じ難い著作についての言及があるそうです。このデルフト出身者がレーウェンフックであることは間違いないでしょう。「豚のロケーション」には,レーウェンフックによる『ミクログラフィア』という著作に関する言及があり,この本は1664年に出版されているので,年代に隔たりはありますが,信じ難い著作とはこの本のことかもしれません。
 スチュアートによれば,このニュースをライプニッツにもたらしたのはチルンハウスであったそうです。チルンハウスは,おそらくスピノザの禁止を破り,ライプニッツに生存中は刊行できなかった『エチカ』の草稿を見せた人物です。あるいは見せていなかったとしても,実質的にその内容を教えた人物です。
 チルンハウスがライプニッツに『エチカ』を見せてよいかを尋ねたのは,直接的ではなく,シュラーを介してでした。『スピノザ往復書簡集』書簡七十がそれで,これは1675年11月14日付になっています。つまりライプニッツがレーウェンフックのニュースをチルンハウスに伝えられる以前に,チルンハウスは『エチカ』の草稿を所有していたことになります。書簡五十七が収録されているチルンハウスからスピノザに宛てた最初の書簡で,これは1674年10月8日付。内容はスピノザの哲学の自由意志の否定に関連するもので,この時点ではチルンハウスは『エチカ』の内容を知っていたものと推測されます。
 書簡七十へのスピノザの返信が1675年11月18日付の書簡七十二。ライプニッツは手紙を通して知っている人物だが,ライプニッツがパリで何をしているかが不明なので,見せないようにという主旨でした。
コメント
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