奥さんが私に,Kは自殺したと言わずに変死したと言ったことに合理的な理由があったとすれば,ふたつのうちのいずれかであると僕は考えます。
ひとつは実は奥さんはこの発言で,何も隠し事をしていなかったというものです。つまり奥さんはKが変死したと認識していたのであり,自殺したとは思っていなかった,もっといえば知らなかったというものです。
純粋にテクストだけを参照すれば,このような読解が不可能ではないと僕は認めます。
先生が自殺したKを発見したのは深夜あるいは未明でした。午前6時前になり,先生は下女を起こしに行きました。その足音を聞いて奥さん,この奥さんはKが変死したと言った奥さんではなくその母親ですが,下宿先の奥さんが目を覚ましました。それで先生は奥さんを部屋に連れて行くのです。テクストはここから自殺直後の謝罪へと続いていきます。
その後の処理を中心的に担ったのは奥さんでした。先生は奥さんの指示で医者や警察を訪ねています。そしてこれら一切の手続きが終了するまで,だれもKの部屋に入れなかったとあります。すなわち後の奥さん,この時点でのお嬢さんも入ることはなかったのです。
その後,先生と奥さんのふたりでKの部屋を掃除し,Kの遺体は私が寝ていた部屋の方へと移しました。テクスト上,お嬢さんが出てくるのはこの後になっています。先生はKの実家に電報を打ちに出掛け,また戻ると奥さんとお嬢さんが遺体の前で並んで座っていたのです。
ですからお嬢さんはKが自殺したと分からなかったとするのも不可能ではありません。しかし常識的には無理があるでしょう。先生とK,奥さんとお嬢さんの4人がひとつの家で暮らしていたのです。Kが自殺したことにお嬢さんが気付かないというのはあり得ないと思われるからです。なので僕はこの読解は採用しません。つまりお嬢さん,後の奥さんはKが自殺したと知っていて,変死したと言ったのだと解します。
現在の『スピノザ往復書簡集』で,ステノの書簡がアルベルトからの書簡の後ろに配置されているのは以下の理由によります。
1673年頃とされていますが,おそらくアルベルトはライデン大学の研究生であったとき,イタリアに旅行しました。これは見聞を広める目的であったと推測されます。ところが現地でカトリックに入信してしまいました。プロテスタントから改宗したのです。
これは名門であったブルフ家には,大きなスキャンダルであったようです。ファン・ローンはオランダをキリスト教国家としていますが,実際にはプロテスタント国家でした。ヨハン・デ・ウィットはローンに,聖書なしでは生きていかれないという主旨の発言をしていますが,そのときの会話の中で,カトリックに関して否定的な言及もみられます。つまりウィットは政治的にはプロテスタントの牧師に悩まされていたのですが,宗教的信条は一致していたのです。少なくともプロテスタントがカトリックと対立するという意味においては,完全に一致していたといっていいでしょう。ウィットは思想の自由には寛容で,スピノザやデカルト主義者が何を考えたとしても,秩序を乱さなければ構わないと考えていました。ですがこの種の寛容さも,カトリック思想に対しては有していませんでした。
議会派の最有力政治家であったウィットがそうなのですし,コレギアント派に寛容であったとされるのでやはり同様に議会派ではなかったかと思われるブルフ家もプロテスタントを信仰していたのですから,プロテスタントの牧師たちの支持を集めていた王党派の政治家も同様であったと考えてよいでしょう。だから一家からカトリック信者が出現したということ自体が,ブルフ家のスキャンダルになり得たのだと思われます。
アルベルトがスピノザに宛てた書簡は,1675年のもの。すなわちカトリック信者としてのアルベルトからのものです。そしてステノがスピノザに宛てた書簡は,1671年という説もありますが,定説は1675年で,同じようにカトリック信者で,もしかしたら司祭であったかもしれないステノからのものです。なのでこれらは一括りにされました。
ひとつは実は奥さんはこの発言で,何も隠し事をしていなかったというものです。つまり奥さんはKが変死したと認識していたのであり,自殺したとは思っていなかった,もっといえば知らなかったというものです。
純粋にテクストだけを参照すれば,このような読解が不可能ではないと僕は認めます。
先生が自殺したKを発見したのは深夜あるいは未明でした。午前6時前になり,先生は下女を起こしに行きました。その足音を聞いて奥さん,この奥さんはKが変死したと言った奥さんではなくその母親ですが,下宿先の奥さんが目を覚ましました。それで先生は奥さんを部屋に連れて行くのです。テクストはここから自殺直後の謝罪へと続いていきます。
その後の処理を中心的に担ったのは奥さんでした。先生は奥さんの指示で医者や警察を訪ねています。そしてこれら一切の手続きが終了するまで,だれもKの部屋に入れなかったとあります。すなわち後の奥さん,この時点でのお嬢さんも入ることはなかったのです。
その後,先生と奥さんのふたりでKの部屋を掃除し,Kの遺体は私が寝ていた部屋の方へと移しました。テクスト上,お嬢さんが出てくるのはこの後になっています。先生はKの実家に電報を打ちに出掛け,また戻ると奥さんとお嬢さんが遺体の前で並んで座っていたのです。
ですからお嬢さんはKが自殺したと分からなかったとするのも不可能ではありません。しかし常識的には無理があるでしょう。先生とK,奥さんとお嬢さんの4人がひとつの家で暮らしていたのです。Kが自殺したことにお嬢さんが気付かないというのはあり得ないと思われるからです。なので僕はこの読解は採用しません。つまりお嬢さん,後の奥さんはKが自殺したと知っていて,変死したと言ったのだと解します。
現在の『スピノザ往復書簡集』で,ステノの書簡がアルベルトからの書簡の後ろに配置されているのは以下の理由によります。
1673年頃とされていますが,おそらくアルベルトはライデン大学の研究生であったとき,イタリアに旅行しました。これは見聞を広める目的であったと推測されます。ところが現地でカトリックに入信してしまいました。プロテスタントから改宗したのです。
これは名門であったブルフ家には,大きなスキャンダルであったようです。ファン・ローンはオランダをキリスト教国家としていますが,実際にはプロテスタント国家でした。ヨハン・デ・ウィットはローンに,聖書なしでは生きていかれないという主旨の発言をしていますが,そのときの会話の中で,カトリックに関して否定的な言及もみられます。つまりウィットは政治的にはプロテスタントの牧師に悩まされていたのですが,宗教的信条は一致していたのです。少なくともプロテスタントがカトリックと対立するという意味においては,完全に一致していたといっていいでしょう。ウィットは思想の自由には寛容で,スピノザやデカルト主義者が何を考えたとしても,秩序を乱さなければ構わないと考えていました。ですがこの種の寛容さも,カトリック思想に対しては有していませんでした。
議会派の最有力政治家であったウィットがそうなのですし,コレギアント派に寛容であったとされるのでやはり同様に議会派ではなかったかと思われるブルフ家もプロテスタントを信仰していたのですから,プロテスタントの牧師たちの支持を集めていた王党派の政治家も同様であったと考えてよいでしょう。だから一家からカトリック信者が出現したということ自体が,ブルフ家のスキャンダルになり得たのだと思われます。
アルベルトがスピノザに宛てた書簡は,1675年のもの。すなわちカトリック信者としてのアルベルトからのものです。そしてステノがスピノザに宛てた書簡は,1671年という説もありますが,定説は1675年で,同じようにカトリック信者で,もしかしたら司祭であったかもしれないステノからのものです。なのでこれらは一括りにされました。