スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

自然権の発生&ネコババ

2015-09-19 19:17:53 | 哲学
 ライオンの自然権について説明したことと,スピノザが第四部定理六八で主張していることを合わせれば,そもそも自然権という概念がいかにして発生するのかが分かります。
                         
 個物の存在が神の属性に包容されている場合,そこには善悪はありません。これを自然権で考えれば,どんな個物の自然権も侵害されることはないという意味になります。しかし実際に僕たちがそのように認識し得るのは,前もって自然権という概念を知っているからなのです。自然権に限らず,僕たちは一般的に権利というものを,侵害してはならない力として与えられていなければならないものと理解します。そのような理解が可能なのは,権利が侵害され得る力であるからです。ですからもしも一切の力の侵害が存在しないとしたら,僕たちは権利という概念を認識することはなかったでしょう。よって,個物がただ属性に包容されて存在しているなら,そこには一切の権利の概念が発生することはなかったといえます。当然ながらこの場合には自然権という概念も発生しなかった,すなわち存在しないということになるのです。
 したがって自然権の発生は,個物が現実的に存在する場合に限られれます。他面からいえば,個物の力が侵害されるということは,個物が現実的に存在して初めて生じることになるのです。
 これは再びライオンの自然権で考えれば容易に理解できるところです。ライオンにはシマウマを食う自然権があります。しかし現実的に存在するライオンが,現実的に存在するシマウマを食う力は,他の原因によって阻止され得ます。単純にいって2頭のライオンが1頭のシマウマを食うために争うなら,2頭のライオンの自然権,あるいは少なくとも片方のライオンの自然権というのは必然的に侵害を受けることになるからです。
 こうしたことがすべての個物の力に当て嵌まることになります。よって人間の場合も同様です。人間の現実的本性がなし得ることが,他の人間によって阻害されるということが生じ得るわけです。このときに,自然権が現実的な問題として人間に現れてくるということになるのです。

 シュラーが『エチカ』の草稿で一儲けを企んだと僕が推測する根拠は,以下の点にあります。
 『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記には,スピノザの死の当日の出来事について宿主であったスペイクの証言があります。それによれば,スピノザはスペイク一家が教会に出掛けていた午後にひとりの医師に看取られて死にました。医師は帰ったスペイクにスピノザが死んだことを告げると,夕方にアムステルダムに帰ってしまいました。このとき,スピノザが机に置いていたいくらかの金銭と銀の柄の小刀が紛失していました。はっきり書かれていませんが,スペイクは医師がそれらをネコババしたと主張しているのです。
 スペイクは死後の遺稿の扱いについて,スピノザから重大な依頼を受けていました。スペイクはその仕事を果たしました。僕たちが『エチカ』を読めるのは,このときスペイクが言われた通りの処置をしたからです。そしてスペイクはスピノザの葬儀の世話もしています。要するに費用の代替をしたということです。こうしたことから考えて,スペイクが嘘の証言をしているとは考えにくいでしょう。
 コレルスはおそらく医師の名誉を慮って,イニシャルだけ示しています。それが示しているのは,おそらくコレギアント派を通じて知り合った,スピノザが信頼していた友人のひとりのメイエルです。ところが識者の多くは,メイエルはこのような行為をする人物ではないと考えています。コレルスの伝記の訳者である渡辺義雄からして,このような記述はメイエルにとっては迷惑でしかなかったと訳注を入れています。
 シュラーはチルンハウスには,スピノザが死んだときに自分がそこに居合わせたといっています。つまり医師はメイエルでなくシュラーだった可能性もあります。スペイクが勘違いするとか,スペイクがふたりをよく知らない限りにおいては,シュラーが偽名を用いることも不可能ではないからです。そしてシュラーならば,ネコババしても不思議ではないと考える識者が多いのです。
 僕はシュラーがネコババしたとはいいません。でも,多くの識者に,シュラーがそうみられているのは看過できないと思います。
コメント
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