スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オールスター競輪&ライプニッツとステノ

2015-09-24 19:14:52 | 競輪
 松戸競輪場で行われた昨日の第58回オールスター競輪の決勝。並びは新田-神山の東日本,桐山-渡辺-武井の南関東,竹内-大塚の西日本,稲垣-稲川の近畿。
 いくらかの牽制の後,神山がスタートを取ったので前受けになったのは新田。3番手に竹内,5番手に桐山,8番手に稲垣の周回。残り3周のホームから稲垣がゆっくりと上がっていき,バックで新田を叩きました。さらに外から桐山も上昇。バックの出口で稲垣を叩いて前に出ると,先に桐山を行かせた竹内が発進。桐山を叩くとそのままふかしていったので,大塚と桐山の車間が開き,追ってきた新田がホームで3番手に。打鐘まで一列棒状になりました。残り1周のホームからまず桐山が動いたものの,前のスピードがよくただ浮いただけ。バックの出口から新田が発進。猛烈なスピードで捲りきり,そのまま後ろを離して優勝。離されながらもどうにか追った神山が3車身差で2着。後方からの捲り追い込みになった稲垣が半車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は3月の日本選手権競輪に続いてビッグ4勝目,GⅠ3勝目。現状の力量からいえばこのメンバーでは負けられないくらいの相手関係になりました。競輪は展開に左右されますから,それでも必ず勝てるというものではありませんが,残り2周のホームでうまく3番手に入ったところで勝負ありとなりました。後ろを千切って楽勝になったのは,そういう展開になったからでしょう。純粋な脚力では現時点でトップだと思います。

 スピノザが死んだのは1677年2月21日。シュラーGeorg Hermann Schullerがライプニッツに送った手紙から,たぶん4月には遺稿集の編集は始まっていたと思います。実際に出版されたのは同年の暮れでした。
 ステノは司祭になった後,1677年にはドイツに赴任しています。汎神論論争におけるメンデルスゾーンの選択ヤコービの戦略的なものであったと解するべきと思いますが,メンデルスゾーンがスピノザ主義を弁護する立場を選べた一因に,ドイツはプロテスタントが優勢であったことがあると僕は考えます。状況はこの時代も同じで,やはりプロテスタントが優勢でした。ですがカトリックの信者もいるにはいました。ステノはそうした人びとのためにドイツで奔走したそうです。
                         
 『宮廷人と異端者』でいわれている,ライプニッツとステノが共同でしていた仕事が何なのかは僕には分かりません。また,僕には資料が少ないこともありますが,ふたりが知り合いだったことを確定するようなものも発見できませんでした。
 このときライプニッツがハノーファで仕えていたのはヨハン・フリードリヒで,カトリック信者でした。元々はプロテスタントだったのですが,1651年に改宗。ただし,一族の中でも改宗したのはこの人だけ。家臣たちもほとんどプロテスタントであったようです。1666年に宮殿を建設。そこでローマカトリックの礼拝を行っていたために,顰蹙を買っていたとスチュアートは書いています。
 ライプニッツには教会再一致という夢がありました。つまりカトリックとプロテスタントが和解して,ひとつのキリスト教となる夢です。ライプニッツは自身の哲学がこの目的を達成するのに資するようにと考えていたようです。ただ,哲学そのものにはここでは立ち入りません。
 まとめると,カトリックの司教だったステノは,スピノザの遺稿集が編纂されている時期には,ライプニッツがいたドイツにいました。そしてライプニッツのパトロンはカトリック信者でした。さらにライプニッツは自身の夢から,ステノと関係をもつ契機はあったことになります。少なくとも関係があってもおかしくはなかったといえるでしょう。
コメント
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