川田利明は阿修羅・原が解雇された際,天龍源一郎に世界最強タッグ決定リーグ戦のパートナーに抜擢されることにより,スターへの階段を上っていくことになりました。このとき,天龍にはふたつの選択肢がありました。ジャンボ・鶴田を頂点とする全日本プロレスの本隊と戦っていた天龍同盟には,天龍,原,川田のほかに,サムソン・冬木がいたからです。
冬木も国際プロレス出身。倒産後に全日本プロレスに入団したという点で,原と同じです。ただし原がその時点で中堅よりちょっと上であったのに対し,冬木はまだ若手でした。同じように若手だった三沢には分が悪く,ターザン・後藤には分が良いという位置だったと記憶しています。これは僕のプロレスキャリアの開始時期のこと。つまり1981年暮れから翌年の春の頃です。川田のデビューは1982年10月。そのデビュー戦の相手が冬木でしたから,キャリアは冬木の方があり,少なくともその時点では実力も冬木が上でした。
天龍同盟に入ったのは川田の方が早く,1987年8月。翌月に川田は世界ジュニアのタイトルに挑戦。この試合後に冬木が乱入。冬木と川田がタッグを結成することになり,冬木も自動的に天龍同盟に入ることになりました。このふたりのタッグはフットルースと呼ばれ,翌年の3月にアジアタッグの王者になっています。
それまでの全日本プロレスでは,アジアタッグというのは中堅クラスのレスラーによって争われるタイトルでした。フットルースがこのタイトルを獲得したということは,若手クラスからは脱したということの証明という意味があったと思います。そしてアジアタッグというタイトルがそれまでより脚光を浴びるようになった契機が,このフットルースによる戴冠であったと僕は考えています。
原の解雇はこの年の11月。本当なら天龍には優勝を期待できるパートナーが選ばれるべきだったのですが,リーグ戦の直前ということでそれができず,川田が指名されたのです。この意味でいえば,単に原が解雇されたことだけでなく,その時期も川田が上昇していくのに絶好だったことになります。
なぜ天龍が冬木でなく川田を選んだのかは今でも分かりません。冬木と川田のプロレス界での運命が,この選択を機に大きく変わったのは間違いないと思います。
ナドラーはスピノザとデ・ウィットが知り合いであったということを不確定な事柄と考えています。だからリュカスが書いているように,スピノザがデ・ウィットから金銭的援助を受けていたということにも懐疑的です。というより,この点に関してははっきり否定的であると理解して間違いないものと思います。
リュカスがいう金銭的援助とは,年金のことです。200ギルダーという金額までリュカスは特定しています。そして破門された後のスピノザの生計の大部分がそれによって賄われていたと読解できる主旨のことをいっています。
この部分はあまり信用が置けないように僕は思います。僕はスピノザはファン・デン・エンデンのラテン語学校で助手として活動していたと考えますが,ここには何らかの意味において金銭的代償があったと思います。またスピノザが磨いたレンズが売れたというのも事実であって,それも生計の手段になり得たと思います。また,メナセ・ベン・イスラエルは,スピノザは自分自身の金を持っているから,破門されることを恐れないであろうという主旨のことを,ファン・ローンに語っています。さらに,スピノザに金銭的援助をした,ほかの友人たちが存在したことも間違いない事実です。つまりこうしたことを総合すると,もしスピノザがデ・ウィットから金銭的援助を受けていたのだと仮定しても,生計の大部分がそれによって賄われなければならないような境遇にスピノザがあったとはいえないと思うのです。そしてデ・ウィットからの援助がなくても,スピノザひとりが生活していくことくらいはできたであろうと思うのです。

さらにナドラーは,いかにデ・ウィットがスピノザが支持する議会派の最有力政治家であったとしても,政治的指導者から金を受け取るというのは疑問だとしています。スピノザは友人から援助は受けていましたが,受け取る金額を減らそうとするなど,むしろそうした援助をされることを好まなかったように考えられるからです。
僕はこのナドラーの推測には説得力を感じます。ずっと後のことではありますが,ハイデルベルク大学教授への就任の要請を断った史実とも,マッチするように思うからです。
冬木も国際プロレス出身。倒産後に全日本プロレスに入団したという点で,原と同じです。ただし原がその時点で中堅よりちょっと上であったのに対し,冬木はまだ若手でした。同じように若手だった三沢には分が悪く,ターザン・後藤には分が良いという位置だったと記憶しています。これは僕のプロレスキャリアの開始時期のこと。つまり1981年暮れから翌年の春の頃です。川田のデビューは1982年10月。そのデビュー戦の相手が冬木でしたから,キャリアは冬木の方があり,少なくともその時点では実力も冬木が上でした。
天龍同盟に入ったのは川田の方が早く,1987年8月。翌月に川田は世界ジュニアのタイトルに挑戦。この試合後に冬木が乱入。冬木と川田がタッグを結成することになり,冬木も自動的に天龍同盟に入ることになりました。このふたりのタッグはフットルースと呼ばれ,翌年の3月にアジアタッグの王者になっています。
それまでの全日本プロレスでは,アジアタッグというのは中堅クラスのレスラーによって争われるタイトルでした。フットルースがこのタイトルを獲得したということは,若手クラスからは脱したということの証明という意味があったと思います。そしてアジアタッグというタイトルがそれまでより脚光を浴びるようになった契機が,このフットルースによる戴冠であったと僕は考えています。
原の解雇はこの年の11月。本当なら天龍には優勝を期待できるパートナーが選ばれるべきだったのですが,リーグ戦の直前ということでそれができず,川田が指名されたのです。この意味でいえば,単に原が解雇されたことだけでなく,その時期も川田が上昇していくのに絶好だったことになります。
なぜ天龍が冬木でなく川田を選んだのかは今でも分かりません。冬木と川田のプロレス界での運命が,この選択を機に大きく変わったのは間違いないと思います。
ナドラーはスピノザとデ・ウィットが知り合いであったということを不確定な事柄と考えています。だからリュカスが書いているように,スピノザがデ・ウィットから金銭的援助を受けていたということにも懐疑的です。というより,この点に関してははっきり否定的であると理解して間違いないものと思います。
リュカスがいう金銭的援助とは,年金のことです。200ギルダーという金額までリュカスは特定しています。そして破門された後のスピノザの生計の大部分がそれによって賄われていたと読解できる主旨のことをいっています。
この部分はあまり信用が置けないように僕は思います。僕はスピノザはファン・デン・エンデンのラテン語学校で助手として活動していたと考えますが,ここには何らかの意味において金銭的代償があったと思います。またスピノザが磨いたレンズが売れたというのも事実であって,それも生計の手段になり得たと思います。また,メナセ・ベン・イスラエルは,スピノザは自分自身の金を持っているから,破門されることを恐れないであろうという主旨のことを,ファン・ローンに語っています。さらに,スピノザに金銭的援助をした,ほかの友人たちが存在したことも間違いない事実です。つまりこうしたことを総合すると,もしスピノザがデ・ウィットから金銭的援助を受けていたのだと仮定しても,生計の大部分がそれによって賄われなければならないような境遇にスピノザがあったとはいえないと思うのです。そしてデ・ウィットからの援助がなくても,スピノザひとりが生活していくことくらいはできたであろうと思うのです。

さらにナドラーは,いかにデ・ウィットがスピノザが支持する議会派の最有力政治家であったとしても,政治的指導者から金を受け取るというのは疑問だとしています。スピノザは友人から援助は受けていましたが,受け取る金額を減らそうとするなど,むしろそうした援助をされることを好まなかったように考えられるからです。
僕はこのナドラーの推測には説得力を感じます。ずっと後のことではありますが,ハイデルベルク大学教授への就任の要請を断った史実とも,マッチするように思うからです。