メンバーが地区的に偏った青森記念の決勝。並びは箱田-早坂-佐藤の北日本,新田-成田の福島,平原-神山-牛山-芦沢の関東。
牽制になりましたが新田がスタートを取って前受け。3番手に平原,7番手に箱田の周回。残り3周のバックから箱田が上昇。ホームにかけて平原を牽制しつつ,ホームの出口で新田を叩いて前に。蓋をされていた平原もその内から上昇。引かずにバックでは箱田の番手を狙う構え。これを見越していたように打鐘で早坂が発進。早坂-佐藤の後ろに内の箱田と外の平原の併走という隊列に。ですが箱田が下がり,単独の3番手となった平原がバックから発進。これに佐藤が応戦。佐藤と平原が身体を併せての競り合いが直線入口まで続きました。この間に新田も捲ってきましたが,コーナーで牛山がブロック。牛山はそのまま神山の外へ。芦沢は平原と神山の間へ。突き抜けた芦沢が優勝。牛山が4分の3車輪差の2着で茨城のワンツー。競り合いを凌いだ佐藤が半車身差の3着で大波乱。
優勝した茨城の芦沢大輔選手は2012年5月の平塚記念以来の記念競輪2勝目。常識的に考えれば優勝のチャンスは極めて薄そうな位置で,その分だけ気楽に走れるところはあったかもしれません。北日本があのような作戦に出ることをどのあたりまで想定できていたか分かりませんが,平原はうまく対処したと思います。ただ,佐藤の抵抗が想像していたより激しかったのではないでしょうか。神山が意外に伸びなかったのも,目の前の競り合いでスピードを殺されるところがあったからかもしれません。
ライプニッツがスピノザは無神論者ではなく敬虔な人物であると考えた根拠を断定することはできません。ただ,スピノザとライプニッツが実際に面会している以上,その面会が根拠になっている可能性は否定できません。そこでどんな会話があったにせよ,ライプニッツがそれによってスピノザの日々の暮らしぶりを知ることができたのは,ほぼ確実とさえいえると思えるからです。
スピノザとライプニッツは何日間かにわたって何度か会見しました。しかしこれを全体を通して1度と考えるなら,会ったのは1度だけです。つまりたった1度の出会いであったとしても,ライプニッツはスピノザが無神論者ではなく敬虔な人物であることを知り得たのだと考えることが可能なのです。ですから,もし何度かスピノザと会ったことがある人物であれば,スピノザが敬虔であるということを,ライプニッツよりも確実に知り得たであろうと思われます。『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記がこの点において重要なのは,コレルスがスピノザを下宿させた人物の証言を得ているからです。そういう人物の証言こそ,スピノザが無神論者ではなかったということの何よりの証明となり得るからです。また,スピノザがフェルトホイゼンに反駁するとき,フェルトホイゼンはスピノザの生活ぶりを知るべきであるとしているのも,少なくともスピノザ自身は,自分の暮らしをよく知っている人間は,自分が無神論者ではないと認識するという点に,かなりの自信をもっていたことの証拠だといえるでしょう。
コンスタンティンは,ライプニッツよりはスピノザと多く会っていたでしょう。とくにスピノザの日々の生活に関しては,間違いなくライプニッツよりも多くのことを知っていただろうと推定できます。だからコンスタンティンには,スピノザが無神論者ではないということは,ごく当然の事実であった可能性が高いと思われます。だからスピノザが別荘を訪ねてくることについて,デン・ハーグの牧師たちが,無神論者がオラニエ家に近い人物を動かそうとしているという説教をしていると知ったときも,肩をすくめるだけですませてしまったと考えることができます。
牽制になりましたが新田がスタートを取って前受け。3番手に平原,7番手に箱田の周回。残り3周のバックから箱田が上昇。ホームにかけて平原を牽制しつつ,ホームの出口で新田を叩いて前に。蓋をされていた平原もその内から上昇。引かずにバックでは箱田の番手を狙う構え。これを見越していたように打鐘で早坂が発進。早坂-佐藤の後ろに内の箱田と外の平原の併走という隊列に。ですが箱田が下がり,単独の3番手となった平原がバックから発進。これに佐藤が応戦。佐藤と平原が身体を併せての競り合いが直線入口まで続きました。この間に新田も捲ってきましたが,コーナーで牛山がブロック。牛山はそのまま神山の外へ。芦沢は平原と神山の間へ。突き抜けた芦沢が優勝。牛山が4分の3車輪差の2着で茨城のワンツー。競り合いを凌いだ佐藤が半車身差の3着で大波乱。
優勝した茨城の芦沢大輔選手は2012年5月の平塚記念以来の記念競輪2勝目。常識的に考えれば優勝のチャンスは極めて薄そうな位置で,その分だけ気楽に走れるところはあったかもしれません。北日本があのような作戦に出ることをどのあたりまで想定できていたか分かりませんが,平原はうまく対処したと思います。ただ,佐藤の抵抗が想像していたより激しかったのではないでしょうか。神山が意外に伸びなかったのも,目の前の競り合いでスピードを殺されるところがあったからかもしれません。
ライプニッツがスピノザは無神論者ではなく敬虔な人物であると考えた根拠を断定することはできません。ただ,スピノザとライプニッツが実際に面会している以上,その面会が根拠になっている可能性は否定できません。そこでどんな会話があったにせよ,ライプニッツがそれによってスピノザの日々の暮らしぶりを知ることができたのは,ほぼ確実とさえいえると思えるからです。
スピノザとライプニッツは何日間かにわたって何度か会見しました。しかしこれを全体を通して1度と考えるなら,会ったのは1度だけです。つまりたった1度の出会いであったとしても,ライプニッツはスピノザが無神論者ではなく敬虔な人物であることを知り得たのだと考えることが可能なのです。ですから,もし何度かスピノザと会ったことがある人物であれば,スピノザが敬虔であるということを,ライプニッツよりも確実に知り得たであろうと思われます。『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記がこの点において重要なのは,コレルスがスピノザを下宿させた人物の証言を得ているからです。そういう人物の証言こそ,スピノザが無神論者ではなかったということの何よりの証明となり得るからです。また,スピノザがフェルトホイゼンに反駁するとき,フェルトホイゼンはスピノザの生活ぶりを知るべきであるとしているのも,少なくともスピノザ自身は,自分の暮らしをよく知っている人間は,自分が無神論者ではないと認識するという点に,かなりの自信をもっていたことの証拠だといえるでしょう。
コンスタンティンは,ライプニッツよりはスピノザと多く会っていたでしょう。とくにスピノザの日々の生活に関しては,間違いなくライプニッツよりも多くのことを知っていただろうと推定できます。だからコンスタンティンには,スピノザが無神論者ではないということは,ごく当然の事実であった可能性が高いと思われます。だからスピノザが別荘を訪ねてくることについて,デン・ハーグの牧師たちが,無神論者がオラニエ家に近い人物を動かそうとしているという説教をしていると知ったときも,肩をすくめるだけですませてしまったと考えることができます。