スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

Kの自殺&相違の根拠

2014-01-28 19:01:35 | 歌・小説
 Kを同居させる際の奥さんの拒絶は,さすがにKの自殺まで想定していたものではなかったと思います。結果的にいえば,Kの自殺の遠因には,Kがお嬢さんを好きになったということはあるでしょうが,ただ,先生との恋の争いに敗れたこと,つまり失恋が自殺の最大の理由であったかといえば,僕はそうではなかったと考えています。
                         
 Kが自殺したのはおそらく2月です。先生の部屋とKの部屋は襖で仕切られていました。先生が夜中に隙間風で目を覚ますと,その襖が少し開いていました。先生は暗示を受けたかのようにKの部屋を覗き,自殺したKを発見しました。
 1月に先生はKと散歩をし,ことばの上でKを打ちのめしました。その晩,この襖が開きました。このときは先生は眠っていませんでしたので,Kと取り留めのない会話を交わしています。このシーンはテクスト上は無意味です。ただ,おそらくこのとき,Kはすでに自殺をする覚悟を決めていました。散歩のときにKは覚悟はあるという主旨のことを言ったのですが,それは自殺の覚悟のことだったのではないでしょうか。自殺したとき,開いていた襖はちょうどこのときと同じくらいだったと先生は書いています。つまりもしもこのとき,先生がすでに眠っていたら,Kはその晩に自殺を決行したのだと思うのです。また自殺の晩に襖が開いていたのは,決行の前に先生がすでに眠っているかをKが確かめたためであったと思うのです。
 先生がお嬢さんとの結婚を奥さんに申し込み,受諾を得たのはこの間のこと。最初に襖が開いた一週間後です。そしてそのことが奥さんからKに伝えられたのは,もっと後のことです。
 これでみれば,Kは自分が先生との恋の争いの敗者になったということをはっきりと知る前に,すでに自殺を決めていたということになります。だから僕はKの自殺の原因に,恋の敗者になったということがあったのだとしても,それは最大の理由ではなかったのだと考えているのです。

 第一部定理二五備考でスピノザが主張しているのは,神が自己原因であるということと,神が万物の原因であるということは,同一の意味であるということです。したがって,少なくとも神が原因であるという場合には,神とその結果が対になって,神が自己原因であるということと同一の意味であるのでなければなりません。そして第一部定理一五により,神なしにあることが可能なものは実在しないのですから,結局のところこのことは自然のうちに実在するすべての原因と結果の関係に適用されなければならないことになります。
 次に第一部定義一は,必然ということばは用いられていませんが,ここには第二のタイプの必然が含まれています。それはつまり,自己原因はそれ自身の本性の必然性によって存在するということです。そしてこのゆえに自己原因は第一部定義八で示されている永遠性を有します。いい換えればこの点において,第一のタイプの必然と第二のタイプの必然が直結するのです。
 そして,第一部定義一に暗示されている必然が,自己原因について肯定的要素だけを含んでいるということ,あるいはそこには何らの否定的要素はもちろん,限定的要素が含まれていないということは明白です。そして自己原因と原因が,実在的な意味においては同一であるのならば,これが自然のうちに実在するありとあらゆる原因と結果の関係に該当することになります。したがってそこには一切の限定的要素が含まれていないと理解しなければなりません。要するに原因にのみ限定的要素が含まれていないと理解するだけでは十分ではなく,結果に関しても限定的要素が含まれていないと理解しなければならないのです。
 実在的に考えた場合,自己原因は原因と結果が異なる原因に対して本性の上で「先立つ」存在であるというのがスピノザの哲学の前提です。なのでこういう説明はあまり相応しくないのですが,自己原因とは原因と結果が同一のものにほかなりません。そこに限定が含まれない以上,それと同一の意味の原因と結果が別の場合の結果についても,限定的要素は含まれないと理解しなければならないのです。
 これが第一のタイプおよび第二のタイプと,第三のタイプには絶対的な相違があると僕が考えることの最大の根拠です。
コメント
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