名城を誇る兵庫県姫路市での開幕となった第23期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が3勝,里見香奈女流名人が6勝。なお,これは第61期NHK杯の予選の結果を含めたものです。
振駒で甲斐女流王位の先手。4手目に角交換する変わった序盤戦でしたが,先手の向飛車,後手左美濃となりました。
後手が飛車先を伸ばしたのに対し,先手はいきなり▲同桂と取りました。これは並べていて最も驚いた一手。後手は昼食休憩を挟んで△5五歩と突き,▲同歩と取らせてから△8五飛。先手は▲8六歩と突いていくのではなく,▲9六角と打ち,△8四飛に▲6三角成と馬を作ったのですが,△3五桂▲3六銀としてから△8五角。
どうもこの後手の一連の手順がうまかったようで,ここでは後手の駒得が生きる展開となっているようです。先手はよくて千日手でしたが,後手の方から打開。先手の反撃を見切った後手が押し切りました。
四つ目のタイトルに向って里見名人が先勝。第二局は来月8日です。
『エチカ』より以前のスピノザの認識論についても考えておくことにします。
1658年頃に成立したと思われる『神,人間,及び人間の幸福に関する短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』においてスピノザは,認識cognitioというのはある純粋な受動passioであって,事物について精神mensないしは知性intellectusがそれを肯定したり否定したりするのではなく,事物自身が精神や知性のうちで自分自身について肯定したり否定したりするのである,という主旨のことをいっています。
この純粋な受動というのをどう解釈するかは,見解が分かれるところだろうと思います。僕の解釈を述べれば,これは『エチカ』でいわれている,あるいは僕がこのブログにおいて理解している受動とは異なります。というのは,たとえ知性がある事物を概念するconcipere場合であっても,そこには精神の決意というものは不在なのであって,むしろそれはオートマティックな,あるいはシステマティックな作用なのであるということは,すでに今回の考察において明らかになっています。そして『短論文』における純粋な受動ということが実質的に意味している内容というのは,そのことと合致しているように僕には思えるからです。
僕はスピノザの認識論というのが,『エチカ』において重大な変更が行われたというようには理解しないといいましたが,そのように理解する理由というのが,この点に存します。すなわち,『短論文』においていわれていることと,『エチカ』で主張されていることとの間に,とくに重大視しなければならないような差異はないというように考えるのです。
たぶんドゥルーズGille Deleuzeは僕と同じように理解しています。少なくともスピノザの哲学の認識論において,初期の頃と『エチカ』の執筆時において,どこか重大な変化があったというようにはドゥルーズは考えていないということだけは確かなことだと思います。僕はドゥルーズによるスピノザの認識論の解釈に関しては,やや疑問を感じる点があるのですが,この点に関してだけいうならば,僕はドゥルーズの主張していることが正しいと考えていますし,その見解を支持します。
しかし一方で,これを『エチカ』における受動と理解することも,不可能ではないということ,というよりももしかしたらその方が自然であるかもしれないということは,僕も認めます。
振駒で甲斐女流王位の先手。4手目に角交換する変わった序盤戦でしたが,先手の向飛車,後手左美濃となりました。
後手が飛車先を伸ばしたのに対し,先手はいきなり▲同桂と取りました。これは並べていて最も驚いた一手。後手は昼食休憩を挟んで△5五歩と突き,▲同歩と取らせてから△8五飛。先手は▲8六歩と突いていくのではなく,▲9六角と打ち,△8四飛に▲6三角成と馬を作ったのですが,△3五桂▲3六銀としてから△8五角。
どうもこの後手の一連の手順がうまかったようで,ここでは後手の駒得が生きる展開となっているようです。先手はよくて千日手でしたが,後手の方から打開。先手の反撃を見切った後手が押し切りました。
四つ目のタイトルに向って里見名人が先勝。第二局は来月8日です。
『エチカ』より以前のスピノザの認識論についても考えておくことにします。
1658年頃に成立したと思われる『神,人間,及び人間の幸福に関する短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』においてスピノザは,認識cognitioというのはある純粋な受動passioであって,事物について精神mensないしは知性intellectusがそれを肯定したり否定したりするのではなく,事物自身が精神や知性のうちで自分自身について肯定したり否定したりするのである,という主旨のことをいっています。
この純粋な受動というのをどう解釈するかは,見解が分かれるところだろうと思います。僕の解釈を述べれば,これは『エチカ』でいわれている,あるいは僕がこのブログにおいて理解している受動とは異なります。というのは,たとえ知性がある事物を概念するconcipere場合であっても,そこには精神の決意というものは不在なのであって,むしろそれはオートマティックな,あるいはシステマティックな作用なのであるということは,すでに今回の考察において明らかになっています。そして『短論文』における純粋な受動ということが実質的に意味している内容というのは,そのことと合致しているように僕には思えるからです。
僕はスピノザの認識論というのが,『エチカ』において重大な変更が行われたというようには理解しないといいましたが,そのように理解する理由というのが,この点に存します。すなわち,『短論文』においていわれていることと,『エチカ』で主張されていることとの間に,とくに重大視しなければならないような差異はないというように考えるのです。
たぶんドゥルーズGille Deleuzeは僕と同じように理解しています。少なくともスピノザの哲学の認識論において,初期の頃と『エチカ』の執筆時において,どこか重大な変化があったというようにはドゥルーズは考えていないということだけは確かなことだと思います。僕はドゥルーズによるスピノザの認識論の解釈に関しては,やや疑問を感じる点があるのですが,この点に関してだけいうならば,僕はドゥルーズの主張していることが正しいと考えていますし,その見解を支持します。
しかし一方で,これを『エチカ』における受動と理解することも,不可能ではないということ,というよりももしかしたらその方が自然であるかもしれないということは,僕も認めます。