スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザの目論見&ライプニッツの葛藤

2015-09-22 18:58:54 | 哲学
 『知性改善論』が未完のままで終ってしまったことに関するドゥルーズの見解に,僕は疑念を抱いています。つまりその見解には同意できないのです。
                         
 僕はドゥルーズの説明が,非常に合理的なものとなっていることは認めます。単純に論理的に考えれば,ドゥルーズの説明には瑕疵はないのであり,この側面からこの見解を否定することは不可能であると考えています。それでも僕が疑念を抱いてしまうのは,もっと単純な観点に依拠しています。
 ドゥルーズの見解を肯定するためには,以下のことを認めなければなりません。
 スピノザは『知性改善論』において,真理獲得の方法を示すことを,少なくとも目的のひとつにしていました。これには僕も同意できます。ところがそれがトートロジーに陥ることによって中断されてしまったとするなら,その方法に関する結論に何の考えもないままスピノザは『知性改善論』を書き始めたのでなければなりません。これはそれ自体で明らかといっていいでしょう。つまりドゥルーズの見解というのは,ある問題の解決に何の目論見がない状態で,スピノザはその問題について書くことを始めたと仮定しないと成立しないのです。
 僕はこのことをリアルに感じることができないのです。哲学者が何かを書くというときに,問題だけは分かっていても答えは分からないという状況でとりあえず書き始めるということがあり得るでしょうか。僕にはそれはあり得ないことだと思えるのです。解決の道筋がついたから書き始めるのであって,『知性改善論』もそうであったに違いないと僕には思えます。
 ですから,僕はスピノザが真理獲得の方法を示すことに何らの方策ももっていなかったとは考えません。むしろそれがあったから書いたと考えるのです。したがって『知性改善論』は確かにトートロジーに陥ったところで終了してしまっていますが,このトートロジーを断つ方法というのも,『知性改善論』を書き始めたときのスピノザのうちには存在したのだと考えます。

 ライプニッツはその気になればスピノザ遺稿集の出版を簡単に阻止できる立場にあったとしましょう。しかしそうしなかったとすれば考えられる理由はひとつしかありません。ライプニッツは遺稿集の出版を望んでいたのです。もちろんそれはスピノザが書いたものを読みたかったからでしょう。僕はこれはライプニッツの純粋な知的好奇心であったと思いますが,もう少しひねって考えれば,それを読むことによって,有効な反論ができると思ったためかもしれません。世間的にいえばこれは背教行為にほかなりませんが,自分で明かさなければだれにも分からないことですから,ライプニッツにとって危険とは思えなかったのでしょう。
 一方で,スピノザと関係があったことが暴露されることは,宮廷人としての自らの立場を危うくしますから,それをライプニッツが不安に感じていたことも事実であったと思います。この間にシュラーとの間で書簡が交わされているのは,ライプニッツに不安があったことの証明であると思われます。
 これらふたつは各々を単独でみれば別の感情です。他面からいえば,異なった観念対象ideatumから生じる感情です。ですからライプニッツのうちで両立し得ます。しかしこれらの感情が,遺稿集の出版の表象に結び付けられる場合には,相反する感情になり得ます。なぜなら知的好奇心は遺稿集が出版されてほしいという欲望と結び付きますが,不安は遺稿集が出版されてほしくないという欲望に結び付くからです。こうなるとふたつの感情はライプニッツのうちで両立し得なくなります。いい換えれば,少なくともどちらかの感情は消滅することになります。
 ライプニッツの場合,それが相反する感情である限りにおいては,遺稿集の出版を欲する感情が,欲さない感情を消滅させたことになります。元来の感情に関連付けていうなら,ライプニッツの知的好奇心は,自分の立場を危うくする危険に対する不安よりも強かったということになります。
 たぶんライプニッツにはこういった葛藤が実際にあったと思います。自らの危険を顧みないほど,ライプニッツはスピノザの遺稿を読みたかったのでしょう。
コメント
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