スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&好都合と不都合

2015-09-03 19:08:10 | 将棋
 横浜で指された昨日の第63期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王座が2勝,佐藤天彦八段が1勝。
 振駒で羽生王座の先手。こうなれば佐藤八段の横歩取り。先手が積極的と思える形を選択し,この戦型でも早い段階から戦いになりました。先手がわりに早い段階で僅かにリードし,そのまま終局したという将棋であったと思います。
                         
 先手が駒得を果たした局面。馬を引きつける手もありますから,後手は攻めていかねばなりません。
 △5六銀と玉頭に圧力をかけていきました。▲6八角は受けだけとしたらつまらない感じですが,飛車取りになっています。
 △6七飛と打っていきました。▲5五馬は待望の一手。
 △7七飛成と銀の方を取り▲同角。△5七銀打▲5九王△6七銀成▲5八歩。この4手は一直線と思います。
 そこで△7六歩と打ったのは,相手を迷わせるという意味で才能を感じる手でした。
 結果的には▲同金も有力だったそうですが▲5七歩と銀の方を取り△7七歩成に▲4八王とひとまず脱出。△6六桂と跳ねたところで▲6二歩と反撃手が回りました。
                         
 まだ難しいのですが,先手は▲3九王と逃げる余地がある分,この攻め合いで勝てているようです。将棋というのは点数を取ったり取られたりで展開することがほとんどですが,この将棋は先手が1点を入れた後,どちらも相手に点数を入れさせることなく推移したような珍しい将棋に思えます。両者の著しい充実ぶりを実感した一局でした。
 羽生王座が先勝。第二局は17日です。

 スピノザに対するデカルト主義者の批判が熾烈なものとなった背景には,カルヴィニストによるスピノザ批判が,反自由主義というイデオロギーに依拠していた点を考慮しなくてはいけません。カルヴィニストにとっては,スピノザ主義だけが自由思想であったわけではなく,デカルト主義も同様でした。要するにカルヴィニストにとって,政治的観点においてはスピノザとデ・ウィットが同じようなものであったのと同様に,思想的観点においてはデカルトもスピノザも同じようなものであったのです。ですから『デカルトの哲学原理』の著者であるスピノザが,『神学・政治論』において,自身をはっきり理神論者と呈示していることは,まことに好都合でした。それによってスピノザだけでなく,デカルトを同時に排撃する理由が得られたからです。
 デカルト主義者はこれに対抗するほかなかったわけです。だから理神論者は無神論者であるという神学的テーゼを肯定した上で,デカルトは理神論者ではないと主張する必要がありました。そのためにはスピノザの思想を激しく非難しなければならなかったのです。カルヴィニストにとって『神学・政治論』が好都合であったとすれば,デカルト主義者にとっては,デカルトの思想と理神論を結び付ける口実を与えるという意味において,非常に不都合なものであったことになります。
 カルヴィニストをカトリック,デカルト主義者をヤンセン教徒,そしてスピノザをカルヴィニストに置き換えれば,リュカスの喩えがいかに優れたものであったかが分かるでしょう。ヤンセン教徒が自分たちはプロテスタントの教義の傾向を有していないということを証明するためにカルヴィニストを非難したように,デカルト主義者はスピノザ的傾向,いい換えれば理神論的にして無神論的傾向を有していないということを証明するために,スピノザとくに『神学・政治論』を激しく非難したのだからです。そこでスピノザが主張している,敬虔,無神論者,理神論者の概念と,各々の関係を理解するために,デカルト主義者が『神学・政治論』を非難したことを重視するべきであるという上野修の主張の合理性も理解できると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする