スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

エリザベス女王杯&定期券

2010-11-14 18:52:24 | 中央競馬
 イギリスとカナダから1頭ずつが遠征してきた第35回エリザベス女王杯。ある程度の人気が予想されたプロヴィナージュが出走を取り消して17頭でのレース。
 テイエムプリキュアの逃げは大方の予想通りでしょう。セラフィックロンプ,ブライティアパルスが追っていき,最初はそれほどでもなかった差が,向正面に入ってから徐に開いていきました。アパパネは6番手を追走し,これをマークするようにイギリスのスノーフェアリー。メイショウベルーガはもう少し後ろ。最初の1000mは59秒9。これでミドルペースでしたから,集団はスローだったと考えていいでしょう。
 直線の入口付近で直前にいたリトルアマポーラに並び掛けるようにアパパネは外へ。対してインに行ったのがスノーフェアリーで,そのまま内に切れ込みながら抜け出すと直線半ばではセーフティーリードを奪って独走態勢。そのまま4馬身の差をつけての圧勝となりました。一番外を追い込んだメイショウベルーガが2着で,ゴール寸前でリトルアマポーラを差したアパパネが何とか3着は確保。
 優勝したスノーフェアリーは今年のイギリスとアイルランドのオークスを勝った3歳馬。これだけの馬が自費で遠征してくるわけですから,本気度は高いものと思われました。日本の馬場に対応できるのかどうかが最大の鍵でしたが,問題なくこなし,むしろ力の違いを見せつける結果。内を突いたジョッキーの判断もよかったと思います。日本の活躍馬でそれなりに近い一族としては,重賞2勝のテンザンセイザやこのレースの前哨戦を勝ったテイエムオーロラがいます。
 騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手はこれが日本での大レース初勝利です。

 週が明けて10月25日。この日は医師から話を聞くことになっていました。磯子中央病院ではこのように,定期的に主治医から家族に対して話をするというのが決まりになっていたようです。これは僕だけが出てもよかったのですが,アパートに住んでいる叔父も出席を希望しました。僕は生活が一変しまして,外での仕事というのをほとんどしなくなったわけですが,叔父はそうではありませんから,叔父が出席するとなるとあまり早い時間では無理があります。しかし一方で,僕の妹をひとりにさせるというわけにもいきません。ということで,午後6時という時間が設定されました。この時間ですと妹が家に帰ってから病院に向っても十分に間に合ったわけですが,あまり妹に移動を強いるのもかわいそうだという思いが僕にはありましたので,僕が妹を作業所まで迎えに行き,そのまま磯子中央病院まで連れて行くことにしました。妹の作業所の最寄りのバス停から,磯子中央病院の最寄りのバス停までは,1本のバスで行くことができたからです。
 ここでこの時期からのバスの使用状況について少し説明します。妹を作業所まで送っていく際には,2本のバスを乗り継がなければなりません。僕は散歩が趣味であるくらいですから,帰りは歩いても大丈夫ですが,仮に行きと同様の手段で帰ると4度乗ります。一方,磯子中央病院へも自宅から歩いて行って帰ることは僕には可能です。ただ,これも普通はバスで行く距離で,自宅からも1本で行かれますが,往復だと2度。つまり1日に6度はバスに乗る可能性があるというのがこのときの,というか今もそうですが,僕の状況でした。バスの運賃は210円。ただし,これらはすべて横浜市営,ないしは市が委託している横浜交通開発バスで,1日乗車券というのを買うと600円ですみます。6度も乗るとすれば半額になりますから最初のうち僕はこれを利用していたのですが,19日に仕事で外出したおり,これらふたつのバスに関しては全線乗ることができる定期を購入しました。1ヶ月で1万円弱だったのですが,1日乗車券半月分を少し超える程度だったので,この方がいいと思ったからです。というわけで,その日,というか正確には翌日である10月20日以降ということになりますが,この定期券を利用するようになりました。
                             
 これは持参人式というもので,そのときに定期を持っている人間が使えるというもの。僕個人ではなく,このようにしたのには理由がありますが,これは後で説明します。なお,妹はバスは路線に関係なく無料です。
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ブリーダーズカップフィリーandメアターフ&生理

2010-11-13 17:01:22 | 海外競馬
 前哨戦を使った日本のレッドディザイアが参戦したブリーダーズカップフィリー&メアターフGⅠ芝1・3/8マイルは,現地チャーチルダウンズ競馬場5日の午後7時前に争われました。
 出走は11頭とそれほど多くありませんが,小回りをぐるぐる回るというコース形態ですので,10番というのは少し不利だったと思います。さすがに最内までは入れず,中団から追走。引っ掛かっているということではないにしても,抑えるのにやや苦労しているようには見受けられました。ただ,詳しいラップは調べていませんが,勝ち時計から考える限り極端なスローペースであった筈で,これくらいは仕方なかったかもしれません。
 当然ながら集団での競馬。直線に入る前で外から前に取りつこうとして上昇,しかし内で競り合う2頭に追いつことができず,さらに外から1頭に差され4着でフィニッシュ。ここは2着の馬がかなり強い馬ではあったものの,可能性は低いとしても勝機がまったくないわけではないと個人的には考えていましたので,そういう意味では,差のない入線とはいえ僕としては少しばかり残念な結果。ただコース形態はこの馬向きではなったように思えますし,本質的にはこの距離も少し長いような感じも受けましたので,致し方のないところではあったかもしれません。

 10月16,17は土日。基本的に土日は妹はお休みですので作業所まで送る必要はありません。ただ1日ずっと家にいるということになりますから,昼食の支度などもあり,介助の度合いはむしろ少し高まります。この2日間は妹を連れて見舞いに。これは妹が休みのときはこの後も同様の習慣となりました。
 20日の水曜に,妹を送った後,その作業所のの近くのホームセンターのようなところに寄って,紙パンツを買いました。といってもこれは母ではなく妹が使うためのもの。というのは,妹の支援について作業所の方たちと話し合いをもったおり,妹が生理になったときにどのように対応するのかということも議題のひとつとなっていたのです。実は僕自身,この世話が最も大変なのではないかと考えていました。
 妹はこれまでの生理のときにはナプキンを使い,さらに下着の上からブルマを穿いていました。ただし,自分でナプキンをうまく当てるということができませんでしたので,家では母が,作業所では女性職員が,介助してくれていたのです。それでも何らかの拍子に漏れてしまうという可能性がないわけではありませんので,念のためにブルマも着用していたわけです。実際に妹は下着を汚してしまうということもあったようです。
 こうした介助を僕がするのは大変ではないかというのが作業所の方の考えでした。そこで,生理中は,普段と同様の下着ではなく,紙パンツをつけて,仮に漏れてしまってもそのまま捨ててしまう方がよいのではないかと提案されました。それで僕もその方法を実行することとしたのです。母によれば,この週のうちには妹の生理が始まるのではないかという話でしたので,事前に購入しておいたというわけです。
 実際に妹の生理が始まったのは23日の土曜の昼から。普通の下着はつけず,ナプキンの上から紙パンツを着用させ,さらにその上からブルマを穿かせるという方法で対処しました。生理が続くこの後の1週間ほど,妹はこの状態で過ごしたということになります。
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倉敷藤花戦&妹の支援

2010-11-12 19:16:11 | 将棋
 互いに1勝ずつをあげて迎えた第18期倉敷藤花戦三番勝負第三局は,さる3日に倉敷で指されました。
 振駒で岩根忍女流二段の先手。またも相三間の浮飛車。里見香奈倉敷藤花が飛車の動きで手損をしたためやや作戦負け模様に。しかし先手がすぐに攻めにいかずに抑え込みにいったため,穴熊に組んでチャンスを待ちました。
                         
 ここから△2四飛と回りました。以下は▲4六銀△4四歩▲同歩△同金▲3七桂△1四香▲4五歩△同桂▲同桂で第2図。
                         
 ここで△1八歩と叩くのが好手。▲同香は△1七歩と叩かれてから香車に成られると先手の飛車が1六に回れなくなります。やむなく▲1五歩とこちらを止めましたが△1九歩成▲1四歩△同飛▲1六歩に△3四歩がまた好手。▲2六飛△2四香▲2五桂△同香▲同飛に△1六飛(第3図)と走り,後手が端を食い破ることが確定しました。
                         
 先手の方針は抑え込みですから,こうなっては玉の堅さの差が大きく実戦的には大差。以下,順当に後手が押し切って勝っています。
 逆転で里見倉敷藤花の防衛。苦手としていた相手に先勝を許しながら防衛しましたので,単なる防衛以上の大きな意味がるように思います。

 翌15日は妹を送った後,作業所の責任者の人とじっくりと話し合いの場を持ちました。作業所といっていますが,これはいわゆる一般企業ではなく,知的障害者のための支援施設なのです。したがってこの作業所には,僕の妹以外にも多くの知的障害者が勤務していました。そうした関係から,ただ作業所で働くということだけではなしに,ほかのサービスがあり,どのようなサービスを利用するかということについて話し合いをもったのです。もっとも,サービスとはいってもこれは有料です。
 結果的にこのときに決まったのは,月に2回程度,入浴の支援を行うこと。妹は普段は家ではひとりで入浴していましたから,これは必要性という点から考えれば不要でしたが,この入浴というのは,作業所での作業の終了後に行われます。つまりこれは帰宅時間がその分だけ遅くなることを意味しますから,僕が家で待っていなければならない時刻というのもそれだけ遅くてすむということになるのです。妹は現時点ですでに2度,このサービスを受けていますが,本人は喜んでいました。
 もうひとつが宿泊で,これは宿泊のための施設の空きの状況を調べる必要があり,このときには具体的な時間を決定することはできませんでした。ただ,月に1回程度はこのサービスも利用するということにしまして,1回目は今月の25日に決まりました。今回は1泊ですが,来月以降は2泊になる可能性もあるようです。
 最後に,妹を家まで送ってもらうというサービス。母の異変が生じる前は,は妹を作業所に送るだけではなく,たとえば雨の日などには迎えに行くということもあったのです。ただしサービスは事前に日時を決定しておく必要があり,雨になったから送ってもらうということはできません。というわけで,それならば最も疲れているであろう週末がよいのではないかということになり,今月から金曜は送ってもらっています。なお,このサービスは入浴サービスとはセットになっていますので,入浴サービスがある日は入浴後に送ってもらうということになります。
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竜王戦&移動

2010-11-11 19:36:25 | 将棋
 シリーズの行方を大きく左右するであろう第23期竜王戦七番勝負第三局。
 渡辺明竜王の先手で羽生善治名人の横歩取り8五飛。後手が攻勢を取る展開に。その後手の攻めが続くかどうなのかがさしあたりの焦点となりました。
                        
 7七の銀を角で取って桂頭に歩を打ったところ。ここで先手は▲9五角と打ち,△9四飛に▲7三角成といきました。実戦の進行のように△同銀に▲6五桂と跳ねていく攻めを見せた手でもありますが,後手の飛車を9四に隠居させた意味も大きかったように思います。
 この後,後手の攻め自体は一旦は切れる形となり,先手優勢とか勝勢といわれたのですが,実戦としてはまだ難しいところが残っていたように思います。後手は粘りに転じて第2図。
                         
 ここで後手は△2四飛と回り,▲2五歩に△7四飛。先手が▲6三角成としたところで△6六金の妙手含みに△7九角と打ち込みました。飛車交換ができないのなら仕方がありませんが,途中の▲2五歩というのは相当に感触が悪い手の筈。以下,▲7六歩の受けに後手は馬を作って7筋から突破にいって第3図。
                         
 ここでは▲6八桂と受けるのが有力だったようですが実戦は▲2四歩。▲2五歩と打たされたのを何とかしようという気になったのではないかと思いますが,結果的には敗着となった模様。△5九馬▲同玉△7八飛成で一遍に危なくなりました。以下,先手も粘りましたが,今度は後手の攻めを振りほどくことができなくなり,後手の勝ちとなっています。
 羽生名人がひとつ返して1勝2敗。苦しい将棋であったことは確かな筈で,それを勝ったという点では,シリーズの流れを変えるという意味でも大きな1勝かもしれません。第四局は25日と26日です。

 14日は妹を送った後,高額医療費の手続き,正式には限度額適用認定証の申請で区役所に行きました。近くのイタリアンレストランで食事を済ませた後,見舞いに行ったのですが,母はHCUにはいませんでした。一般病棟に移動になっていたのです。この結果,見舞いが可能な時間が午後1時から8時までとなり,翌日からは少し楽になりました。
 磯子中央病院は5階まであって,HCUは2階。この日に母が移動になったのは同じ2階にある一般病棟。この2階の病棟は,とくに診療科の区分はなく,急性患者の専用病棟という括りになっていました。それでも,HCUを出ることができたというのは,また少し僕を安心させる出来事でした。もっとも,母の状況だけでいうなら,目眩や吐き気がひどく,食事も満足に摂取できませんでしたし,そもそもベッドから身体を起すのはもちろん左半身を下にして横になるということもできない状態ですから,前日とこの日の間に何か劇的な変化というのがあったというわけではありません。
 また,一般病棟に移動したことに伴い,この日からリハビリも開始されました。リハビリの内容はふたつあって,ひとつは視神経に関するもの。目の前で指を動かされてその動きを目で追うというものだったようですが,やはりうまくできなかったそうです。もうひとつは手足の筋力をつけるもの。これは小脳出血から直接的に起因するものではなく,実際に母は手足は自分の思い通りに,というかスピノザ哲学的にいうなら第三部定理二により,思い通りというのはおかしいのであって,身体機能としての不全は起こしていませんでした。ただ,ベッドから身体を起こすこともできないような状況でしたから,不全は起こしていなくても現実的には使っていませんでした。使っていなければ当然ながら筋力が衰えてきます。そこでその衰えをカバーするためのリハビリが行われました。療法士が力を入れて,それを押し返していくというような内容だったようです。もちろんこれは,ベッド上に横たわったまま行われるものでした。
 ただし,後に少し詳しく説明しますが,このリハビリというのは,本当の母がしなければならないことと比べるならばごく軽微なもの。本格的なリハビリに入る前段階のものです。
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ハイセイコー記念&見舞い

2010-11-10 20:40:49 | 地方競馬
 日程のいたずらで2週続けて2歳馬による南関東重賞が施行。今晩は第43回ハイセイコー記念
 逃げたのはリアンローズ。同枠のゴーディーが2番手で,その外を抑えきれないほどの手応えでセルサス。前半の800mは50秒0でミドルペース。
 2番手のゴーディーは3コーナーを回ると一杯になり後退。自然とセルサスが2番手となり,直線入口では逃げたリアンローズに並び掛けました。直線に入ると騎手が後方を確認してから追い出し,付け入るすきを与えずに5馬身の差をつける楽勝。4番手の内から,追ってくるという感じでもありませんでしたがそれなりの伸びをみせたリョウウンが2着。中団から外を伸びたエースキッドがさらに4馬身差で3着。
 優勝したセルサスは新馬を2着に負けた後,5馬身差をつけての連勝でここが4戦目。おそらく初戦を負けたのは距離不足のためでしょう。ここもまた同じだけの差をつけての圧勝ですから,現時点での力は他を圧倒している感があり,これは来年に向けてかなり楽しみな逸材だと思います。父は大レース5勝のタイムパラドックス,伯父に1990年の目黒記念を勝ったマルタカタイソン。馬名はたぶん古代ローマの学者の名前だと思います。
 騎乗した石崎駿騎手平和賞に続いて2週連続の南関東重賞制覇。管理している船橋の佐藤賢二調教師とともにハイセイコー記念初勝利となりました。

 僕の生活が一変したのは,もちろん妹の介助をほぼひとりで行わなければならなくなったというのが最大の要因ですが,もうひとつ,僕自身の希望として,毎日の見舞いを欠かしたくないという思いがあったからでもありました。
 は結果として3度入院することになったわけですが,僕は父の見舞いに関しては行かなかった日の方がずっと多かったわけです。それなのに母の見舞いは毎日するというのでは不公平に思われるかもしれませんが,やはり事情が違います。そもそも父の見舞いには母自身が毎日,厳密にいえば1日だけ除いて毎日行っていたわけです。したがって,必要性という観点からいっても,僕は行かなくても困るということはありませんでした。
 一方,僕は昨年の元旦から20日の退院までみなと赤十字病院に入院していたわけですが,その間は母は毎日来てくれていました。実際のところ,そう毎日毎日来られたところで,何がどうというわけではないのです。それは入院した僕自身がよく分かっていたことです。ただ,今回の場合は,もしも毎日見舞いに行くことができる人間がいるとすれば,それは僕以外にはいませんでした。僕が見舞いに来られてそう思っていたことの逆で,実際には毎日行ったところでどうということはないのですが,こうしたような事情がありましたから,今回は僕が行こうと思ったわけで,また僕がそのように望んだということは,ごく自然なことだったのではないかと思います。
 前述したようにHCUの面会時間で僕が行くことが可能だったのは正午から午後1時の間でしたので,13日は妹を送って帰った後,早めに昼食を摂って磯子中央病院に向いました。HCUの病室の構造は,みなと赤十字病院と磯子中央病院では当然ながら違っていて,磯子中央病院では一部屋に横並びに4床のベッドがあったのですが,この日,母の右側にいた患者が亡くなったそうです。前述したように僕は母がICUではなくHCUに入院したということで少し安心していたのですが,HCUでも死亡するというケースがあるということでこれはちょっとした驚きでした。
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平和賞&一変した生活

2010-11-09 18:54:13 | 地方競馬
 北海道から3頭,岩手と笠松から1頭ずつの遠征馬も交えて争われた3日の第56回平和賞
 スルガカツフジが逃げて,これを北海道のスクランブルエッグとイチバンボシが追い掛ける形。ブレットザキングを挟んでドラゴンウィスカーも続きました。前半の800mは50秒9。このくらいの距離の2歳戦はハイペースが多いのですが,ここはミドルペースに。
 人気のイチバンボシがスクランブルエッグにプレッシャーをかけるような形となり,直線に入るところではスクランブルエッグが先頭に立ち,その外にイチバンボシ。この競り合いを同じ北海道のドラゴンウィスカーが差して先頭に立つも,中団にいたヴァインバッハがインから鋭く伸びて優勝。ドラゴンウィスカーが2着でスクランブルエッグが3着を死守。
 優勝したヴァインバッハは新馬を2着してここが2戦目。新馬も末脚は強烈で,ここも勝負圏にいる1頭と考えていましたが,キャリアを誇る北海道勢に対して堂々たる勝利。牝馬で,今後はどのような路線を歩むのか分かりませんが,ラップ的にも展開に恵まれたというわけではありませんから,無事なら今後の活躍は約束されているのではないかと思います。父はアグネスタキオン
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は先月の東京記念以来の南関東重賞制覇で2005年以来となる平和賞2勝目。管理している船橋の出川克己調教師は意外にも平和賞初勝利となりました。

 さて,話を12日に戻します。
 前日まで3連休だった妹でしたが,この日から作業所に出勤でした。妹は帰りは基本的にひとりでバスを乗り継いで帰ってきます。したがって行きもひとりで行くということは可能でしたが,ある時期からは常にが車で送っていました。というのも妹は癲癇の発作を起こすことがあり,そのための薬も飲んでいますが,朝はとくに危険だったからです。ここ最近はほとんど発作は生じていませんでしたが,やはり送らなければなりません。ということで僕が送って行きました。冷蔵庫の中が空に近いような状態でしたので,そのついでに買い物もしています。
 一方,母はHCUに入院したのですが,磯子中央病院のHCUの面会時間というのは正午から午後1時までか,そうでなければ午後5時から6時まででした。妹は早ければ午後4時半には帰宅しますので,5時から6時の間に僕が行くことは不可能。ということで,正午過ぎに病院に向い,入院の手続きなども済ませ,母を見舞ってから医師の話を聞いたわけです。
 この12日という日は僕はオフでした。ただ,11日には仕事があったのをキャンセル。また,翌13日も仕事がありましたが,水曜は妹の帰宅時間が早く,3時半ごろには家にいなければなりません。ということで,この日のうちにそれを済ませておく必要があり,見舞いを終えてから外出しました。4時前には帰宅できましたが,やや綱渡りの1日でした。
 この12日というのはとくに忙しくなったわけですが,母の入院により僕の生活は一変しました。買い物とか夕食の支度,妹の介助,それから主だった炊事や洗濯というのはそれまでは母が一手に行っていたのですが,これを僕自身が代行しなければならないという状況になったのですから当然です。もちろんこれ以外に,入院に関係するような書類の申請に区役所へ行くとかいうような用事も重なったわけです。ということで,僕はまったくというわけではありませんが,ほぼ仕事をしなくなりました。というか,本当は炊事や洗濯だって仕事なのですからこれは変ないい方で,金を稼ぐための仕事がほぼできなくなったわけです。
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JBCスプリント&小脳出血

2010-11-08 18:47:19 | 地方競馬
 芝,ダートに関係なく日本初,1000mで争われた3日の第10回JBCスプリント
 好発からサマーウインドの逃げ,外の2頭,アイルラヴァゲインとナイキマドリードが追う形。最初の400mが22秒2。これはハイペースでしょうが,コーナーを回るレースですから許容範囲でしょう。
 結局,逃げたサマーウインドは後続に影をも踏ませぬという形容がぴったりとなる4馬身差の圧勝。流れ込むという形ですが地元のナイキマドリードが健闘の2着。内目から差し込んだミリオンディスクが3着。
 優勝したサマーウインドは前哨戦のクラスターカップ東京盃から3連勝で大レース初制覇。スピードを生かすタイプの馬ですから,今年のレースが1000mという距離で争われたのは好都合であったと思います。どのくらいの距離まで対応できるのかは分かりませんが,1200mまでであれば今後もかなりの活躍が見込めるでしょう。父はタイキシャトル,母は重賞2勝のシンウインド
 鞍上の藤岡佑介騎手,管理している庄野靖志調教師にとっては待望の大レース初勝利となりました。
                         

 が発症した病気は脳内出血だったわけですが,もう少し具体的にいえば,小脳出血でした。
 動物の中で人間というのは脳が占める比重というのが大きく,一口に脳といってもいくつかの部位に分かれています。そのうち小脳というのは,どちらかといえば人間の本能というか原始的生活に関係するような部分であるということは僕も知っていました。母は目眩と吐き気以外には自分自身で感じるような,あるいは僕などが傍から見ていて分かるような症状を呈しませんでした。すなわち手足は自由に動かすことができましたし,言語機能や思考機能などにも一切の異常を起こさなかったのです。そしてこれは,出血を起こした部分が小脳であったからでした。
 12日に医師から話があるということで,僕は叔父と一緒に聞いてきました。このとき,造影剤を用いた検査結果の写真を見せてもらいましたが,出血を起こしているのは脳の中央といえるような部位。そこがどんな機能を負っているのか,たとえば視神経と関係しているのかあるいは三半規管と関係しているのかといったことは僕には分かりませんでしたが,いずれにしてもこれが目に見えて表れた症状の原因であることには違いありませんでした。ただ,出血といっても多量とはいえず,また,経過の観察からして出血自体も止まっていると考えられ,手術をするというのはむしろリスクが高いので,投薬治療を行っていくという方針になりました。とはいえ,病院に来るのがもう少し遅れていれば,生命に関わっていたかもしれないとの話でした。
 そのほか,このときの医師の話で特記しておくべきことは,まず出血の原因ですが,これは一般的には動脈硬化とのこと。ただ,これを特定することは少なくともこの時点では不可能であるという話でした。もうひとつは後遺症が残るかどうかということ。これも一般的には,脳内出血の中でも小脳出血の場合は予後は順調なケースが多いようです。ただし,もちろんこれも必ずというわけではありません。したがって,何らかの後遺症が残るという可能性はあるというのが医師の見解でした。
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函館記念&脳内出血

2010-11-07 18:51:10 | 競輪
 かなり冷え込むことも予期された函館記念の決勝(動画)。並びは新田-菊地-渡辺一成-内藤となった北日本,藤田-神山の関東に渡辺晴智,永井-小野の遠征。
 前受けは永井。藤田が中団で新田が後方という周回。新田の上昇はやや遅く,残り2周を過ぎてから。バックで永井に並び掛けて打鐘となりましたが,永井も引かずに激しい先行争い。前がもつれた結果,永井の番手に新田がはまり,小野,菊地と続く形に。菊地にはついていかなかった渡辺一成がバックから自力で捲っていくとこれがものの見事に決まり,あとはマークの内藤と直線勝負。迫られましたが凌ぎきった渡辺一成の優勝。内藤が2着で北日本ワンツー。藤田から内藤にスイッチの形になった神山が3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手はこれが記念競輪初優勝。菊地の地元ということで同じ福島の新田の番手を譲ったのだと思いますが,それがかえって展開面での恩恵を受ける形になりました。やはり自力選手ですから,自力を出すようなレースになったということ,また迷わずに自力を出したということが,この優勝の大きなポイントになったのではないでしょうか。

 このときのは,目眩がひどく,身体を動かすと吐き気を催してしまうという状態。身体の右側を下にして横になっていると最も容態が安定するという状態でした。母はいつもそうしているように2階で横になっていましたので,1階に下りていくというだけでも大変な状況。にもかかわらず母は,病院へ行く前に着替えをしたいと言い出しました。僕は昨年の元旦に入院したとき,自分が何を着ているかなどということは少しも気にかけませんでしたので,ちょっと驚きました。ただ,父の遺体を荼毘にふしているときに聞いたT先生の奥さんのエピソードからすると,やはりそういうことにも普通は気が向くものなのかもしれません。このときに僕はこのことを思い出したのです。
 叔父と母が家を出たのは正午過ぎだったのではないかと思います。僕は病院と連絡を取った際に,目眩と吐き気が強く,それ以外には何の異常もない,熱もないということを伝えておきました。電話先の人は,頭を強く打ったりしたことはありませんでしたかと尋ねてきたので,僕はそれはなかったと答えたのですが,このやり取りのうちに,すでに先方では母の異変の原因が何であるかということについて,ある程度の目星をつけていたようです。検査をして,午後3時前には叔父から電話がありました。そのとき伝えられたことは,母が入院することになったということ,そして母が脳内出血を起こしているということの2点でした。
 入院のためには手続きも必要ですし荷物も必要。ただこの日は妹が家にいましたし,祖母もアパートで待機していましたので,僕は病院に行くことができず,叔父が一旦家まで戻り,僕が用意した荷物を病院に届けました。それから祖母をホームに送って行きましたので,叔父にとってはとてもハードな1日となったわけです。
 脳内出血というのは僕は予期していませんでしたが,入院するのは当然だろうと考えていたので,それ自体は驚きませんでしたし,むしろ自宅で頻繁に様子を窺わなければならない状況ではなくなりましたので,その点では安心できたくらいです。なお,このとき母が入院することになった病室は,HCU。すなわち病院こそ違えど僕が入院したのと同じ部屋。それも僕を安心させた要因のひとつ。僕自身の経験から,HCUであるなら,生命の危険があるとは考えられなかったからです。
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観音寺記念&10月11日

2010-11-06 17:03:12 | 競輪
 かなりの豪華メンバーが集結した観音寺記念は,2日が決勝(動画)でした。並びは菅田-伏見の北日本,武田-飯嶋の茨城栃木,小嶋-山口の中部,村上-加倉の西日本で,小倉は単騎。
 武田と小嶋でSを取りにいきましたが,インの有利さで武田の前受け。菅田が3番手で小倉が続き,6番手は村上で小嶋が8番手という周回。残り2周のホームから村上が上昇,バックで叩くと武田はインで粘り,加倉をどかして番手に入りました。これを外から菅田が叩きにいきましたが,バックで一杯。様子を見ていた伏見が発進し,捲ることはできたのですが,後方で脚を溜めていた小嶋が山口を連れてさらにその上を捲りきりました。直線でも山口を寄せつけなかった小嶋の優勝で,山口が2着と中部ワンツー。3着には伏見。
 優勝した石川の小嶋敬二選手は今年は不振で,記念競輪の決勝に進出できたのが初めて。前受けできなかったことがかえって展開面で恩恵を受ける結果となり,確かに恵まれた部分はありました。それでもこの爆発力はやはり脅威的で,力が完全に衰えてしまったというわけではないということは見せつけました。むしろレース振りのまずさから安定した成績を残せていないという感がありますので,そのあたりが課題なのではないでしょうか。昨年3月の松山記念以来となる記念競輪29勝目です。

 それでは時計の針を少しだけ元に戻して詳しく説明していくということにします。
 母の異変が生じたのが10月8日。このとき,祖母はショートステイに出ていて不在でした。予定では10日に家に戻り,翌11日にホームに入所することになっていました。8日の夜の時点では,母はこうした作業を自分でこなすつもりでいましたし,僕自身もそのときはそれが可能なのだろうと思っていたのです。しかし9日の夜には母は説明したような状態でしたから,これは難しいかもしれないと僕は思いました。なお,妹は家にいたわけですが,9日は土曜でしたから仕事はなく,作業所に送っていく必要はありませんでした。妹は食事の支度などは自分ではできませんので,これは僕がやりました。
 10日になっても母の状況は改善しませんでした。祖母を迎えに行くためには車を出す必要があり,しかし僕は免許は持っていません。そこでこの日の朝のうちにアパートに住んでいる叔父を呼びました。叔父は先に母の状態を確認。病院に連れていくと言ってくれたのですが,これは母が嫌がりまして断念しました。僕としても妹の介助のほかに母の介抱もしなければならない状況でしたから,本音をいえば病院に行ってほしかったのですが,本人が嫌だというのですから仕方ありません。様子をみることにしました。
 祖母は叔父が迎えに行きましたが,ほかに翌日の入所のための準備というのが必要でした。ホームの部屋にはほとんどといっていいくらい備品がありませんでしたので,かなり多くの荷物を持ち込まなければならなかったのです。それをこの日のうちにやるということになっていたようで,これももちろん母は自分でやるつもりだったようですが,この状況ではできませんので,この日の午後に僕と叔父でホームに行って済ませました。この晩は祖母はアパートに泊っています。
 11日は体育の日で休日。つまり妹は3連休でしたので,この日も送る必要はなし。午前中に叔父が母の様子を見にきたところ,ようやく母も病院へ行くと言い出しました。というわけで,6月5日に父を運んだ病院に僕が連絡を取ると,診察が可能とのこと。妹の面倒を僕がみることにして,叔父が母を連れていきました。今回は名前を出しますが,この病院は磯子中央病院というところです。
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メルボルンカップ&母

2010-11-05 18:52:41 | 海外競馬
 オーストラリアの国民的行事,メルボルンカップGⅠ芝3200mは,例年通りに現地時間で11月の第一火曜日,今年は2日に行われました。日本から参戦したトウカイトリックを中心に簡単に振り返っておきます。
 発馬は不利というほどではありませんでしたが,ダッシュはいまひとつの印象。ただし,ここは22頭が出走した中で3番枠でしたので,中団の内という位置は難なく確保できました。そのまま流れに乗ってレースを進め,3コーナーを回ったあたりから漸進を開始。外が伸びると判断した騎手が多かったからかもしれませんが,4コーナーを回るところでは多くの馬が外へ。トウカイトリックは構わず内から進出して,コーナーワークの有利さもあり,直線で一旦は先頭に立ちました。ただ,1頭になってしまったこともあるでしょう,そこからは伸びあぐね,外から集団で追ってきた馬たちに抜かれると,騎手も諦めた感じで追うのをやめ,そのまま流して12着という結果に終わりました。
 距離はよかったと思いますが,やはり力量的に勝つというのは難しかった模様。外を回ればもっと頑張りがきいて,もう少し上の着順には来られたのかもしれませんが,一旦は先頭に立つというような見せ場を作れたかどうかは分かりません。そういう意味では,むしろいいレースをしたといっても差し支えないのではないでしょうか。

 8月4日に父の最期を迎えたということもあり,僕の糖尿病共生記という本来の趣旨からやや離れ,父に関する記述を延々と続けました。まことに恐縮な思いですが,今度は母に関する記述が続くことになります。そこでまず,母に関して簡単に紹介しておくことにしましょう。
 母は年齢ではひとつ,学年でいうならふたつ,父よりも上です。生年月日は1943年1月1日。昔は暮れも押し詰まって子どもが誕生すると,誕生日を翌年に繰り越すということがあったそうですが,母の場合は正真正銘の元日産まれとのこと。きょうだいは母も含めて3人。渡米先にいる姉と,アパートに住んでいる弟です。
 母の母に関してはすでに何度か説明しているように,最初は脳出血で倒れ,後には脚にも血栓ができて血流の不全を起こすなどして,現在は要介護4となっていますが,健在です。一方,母の父は僕が小学校5年のときに心筋梗塞を発症して死にました。僕が最初に通夜や葬儀に参列したのは,この祖父のときのこととなります。
 ある体育大学を卒業した母は,横浜市の中学校教員となりました。もちろん保健体育の教師です。年齢の関係から母が最初に赴任していた中学校に父が新任教師としてやはり赴任し,そこで出会って結婚したわけです。なお,母も後に現在でいう特別支援学級を担当するようになりましたが,これは父より遅れてのことでした。
 母の母を僕の家に引き取ることになった関係から,母は定年までは勤務せず,50代半ばで退職しました。その後,僕の祖母や妹の世話などありまして,日常のほとんどの時間はそうしたことに費やしたことになりますが,ちぎり絵の教室に通ったり,友人と昼食を食べに行ったりするなどのことはありました。また,これは妹が以前に通っていた作業所に,ボランティアとして週に1回でしたが昼食の支度をしにも行っていました。
 父の場合と異なり,母には趣味らしい趣味というのはありませんでしたが,強いてひとつあげるならば,園芸でしょうか。自宅には狭いながらも花壇がありまして,そこに季節ごとに花を植えては育てていました。
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北海道2歳優駿&母の異変

2010-11-04 20:34:01 | 地方競馬
 これもJRA勢と北海道勢の力の比較が困難となる第37回北海道2歳優駿
 はっきりと先手を主張する馬がなく,流れの中でダブルオーセブンの逃げになりました。ビッグロマンスは中団,エルヘイローは後方の位置取り。こうした展開ですからペースは遅かったです。
 このスローペースにしびれを切らしたように向正面で最後尾にいたエバーオンワードが外を一気に進出し,3コーナーでは先頭に。ただ,捲られる形になった馬も圏外に沈むということはなく,集団で4コーナーを回って直線へ。エバーオンワードが粘るところ,外から漸進してきたビッグロマンスが捕えて先頭。しかしこれを内からカネマサゴールドがうまく掬って優勝。ビッグロマンスが2着で3着にエバーオンワード。
 優勝したカネマサコンコルドは初戦2着の後3連勝。前走は中央のオープンに出走して4着。2戦目以外は短距離を使っていたのですが,むしろこれくらいの距離の方が向いていたのかもしれません。少なくとも,勝っても不思議ではない力はみせていた馬だと思います。父はフサイチコンコルド
 騎乗した北海道の宮崎光行騎手はこのレースが重賞になる以前,1994年の帯広のレースを勝っていて,北海道2歳優駿としては2勝目。管理している北海道の堂山芳則調教師は2004年以来の2勝目です。

 みなと赤十字病院の総合内科の通院日であった10月4日から始まる1週間は,改めて病院に行くことができませんでした。厳密にいいますと,初診を受け付けるのは午前中のみで,午前中だけならば時間が取れるという日はあったのです。ただ,みなと赤十字病院に電話したおり,かなり待つことになるかもしれないと言われましたので,できれば1日オフにできる日があれば,その日に行きたいと思っていました。失敗したとはいえ,実際に困ることになるのは11月下旬になってからでしたから,僕の方にもそんなに急がなければならないという気持ちも生じなかったのです。ところがこの後で,まったく予期していなかった事態が発生してしまいました。
 発端は10月8日の金曜のことです。この日,父の最期を僕や母と一緒に看取ったの最も下の姉,僕の伯母が午前中に訪ねてきて,父の墓参りに行くことになっていました。僕もこの日は午前中は大丈夫でしたので,母の運転で3人で墓参をすませました。僕はそれで家に戻り,母と伯母は別のところへ出掛けたのです。僕は午後から外出。それでも夕方5時前には帰宅しました。このときには母も,それから仕事に行っていた妹も家に戻っていて,母が夕食の支度をしました。支度はしたのですが,夕食の時間になると母は目眩がすると言い出し,それに手をつけられませんでした。昼は外で食べて,そのときは何でもなかったようなのですが,その後,車での帰路の途中で体調に異変を感じたようなのです。結局この日,母はそのまま何も食べずに寝てしまいました。
 母は,風邪などをひいて具合が悪くなると,何も食べずに眠り続けるということがこれまでもよくありました。だからこの時点ではそういうことなのだろうと僕も思っていまして,さほどの心配はしていませんでした。翌9日の土曜日も,1日中横になっていたのですが,それ自体もそんなにひどく心配するにはあたらないと思っていたのです。ところがこの日の夜になると,目眩だけでなく吐き気も訴えるようになり,実際に嘔吐するようになったのです。といっても,何も食べていませんから,吐き出すのは胃液のようなもののみです。そしてそれ以外には異常はない。つまり発熱などもしていないのです。さすがにこの時点で,僕もおかしいと思うようになりました。
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JBCクラシック&失敗

2010-11-03 18:59:27 | 地方競馬
 JBCに備えるため,10月は開催がなかった船橋競馬場。無事に第10回JBCクラシックが行われました。今年は1800m。
 マグニフィカの逃げと予想していましたが,スマートファルコンが果敢に主張して行きました。フリオーソが2番手でマークし,オーロマイスター,アドマイヤスバルが並ぶようにその後ろ。最初の800mは45秒9ですのでこれはものすごいハイペースです。
 普通に考えればオーバーペースなので,フリオーソが向正面で追っていくのに苦労したのはごく自然。スマートファルコンが差をつけたまま直線に入り,普通なら止まるところでしょうが,ラップこそ落ちたものの後ろとの差はむしろ大きく広がっていき,7馬身もの差をつけて逃げ切って優勝。フリオーソが何とか2着を確保。3着はアドマイヤスバルがシルクメビウスの追撃を振り切りました。
 優勝したスマートファルコンは5月のさきたま杯以来の勝利。重賞11勝目にして待望の大レース制覇。正直,もう大レースを勝つのは難しいかなと考えていましたので,個人的にはこの優勝には驚きました。本質的にはスピードタイプの馬と思われ,そのよさを十分に生かしきることができたのが,この圧勝につながったのではないでしょうか。父はゴールドアリュール
 鞍上は武豊騎手川崎記念以来の大レース制覇で,一昨々年,一昨年,昨年に続きJBCクラシック4連覇で5勝目。管理している小崎憲調教師はこれが大レース初勝利です。
                         

 この注射するインスリンの量の配分変更が決定された日の診察で,僕は実は大きな失敗をやらかしてしまいました。
 父の最期が目前に迫っていた7月,僕には心配事があったわけですが,それからも分かるように,インスリンというのは次の診察の日までぎりぎりではなく,いくらか余分に処方されています。逆にいうと,診察の時点では自宅の冷蔵庫に在庫があることになります。なので診察のときには,在庫の量を尋ねられ,その在庫状況に合わせて次の診察までのインスリンが処方されるということになっています。よって在庫を確認しておくことは必須で,これに関しては僕もよく気を付けていますから,これまで失敗したということはありません。それはこの日も同様でした。
 しかし,実際はインスリンだけあれば事足りるというわけではないのです。注射するためには針が必要で,この注射針も処方箋によって入手します。僕が使っているのはマイクロファインプラスという製品ですが,これは袋詰めになってまして,一袋に14本入っています。さらにその袋が箱詰めになっていて,1箱に5袋入っています。すなわち1箱で70本。1日に4回の注射ですから,失敗しない限り,1袋で3日強,1箱だと17日強になります。なお,処方は袋単位でされますので,何箱かと何袋かを受け取ることになっています。
                         
                         
 この日,注射針の在庫状況に関して,残り1袋と伝えなければならないところ,1箱とМ先生に伝えてしまいました。したがってそれに見合うように処方されたのですが,帰って数を数えてみると次の診察の日までの分には足りません。針がないと注射できませんからこれは大変。というわけで,すぐに薬局の方へ電話をしたのですが,この注射針は処方箋がないと出せないという返事。仕方がないのでみなと赤十字病院の方へ電話をしたのですが,処方箋を出すためには診察が必要とのこと。ただし,この診察はМ先生でなくても構わず,総合内科の場合は午前中に初診を毎日受け付けているから,そこで処方箋を出してもらうようにとの指示でした。
 実際に注射針が足りなくなると思われるのは11月下旬。というわけでそんなに慌てる必要はありませんでしたが,もう1度,病院に行かなければならない羽目に陥ってしまったのです。
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倉敷藤花戦&配分変更

2010-11-02 19:19:38 | 将棋
 岩根忍女流二段の初タイトル獲得なるかどうか。第18期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 里見香奈倉敷藤花の先手で相三間飛車。互いに飛車先の歩を切って浮き飛車に構えました。
                         
 先手が角交換を挑んだところ。後手は△4四歩で拒否。相振飛車は序盤で思わぬ差がつくケースがありますが,この将棋ももしかしたらこのあたりで後手が不本意な展開に陥ってしまっているのかもしれません。この後,先手が飛車の動きで揺さぶりをかけて第2図に。
                         
 ここから▲7六銀△4五歩▲7五銀。そこで△5二金上と固めて▲7七桂に△4六歩▲同歩の突き捨てを入れてから△4四銀(第3図)と攻め合いを目指しました。
                         
 しかしここでは▲6四歩からの先手の攻め足の方が早かったようです。この後,難しくなったようにも思いますが,結果的には先手が攻めきって勝ちました。
 これで1勝1敗。タイトルの行方は明日の第三局に持ち越されることとなりました。

 さらに月が開けて10月4日。みなと赤十字病院の通院の日でした。
 この日のヘモグロビンA1cは7.1%。実はこの間は血糖値はわりと良好な状態で保たれているという印象を僕自身は抱いていましたから,少しとはいえ悪くなっていたのは意外でした。ただ,この間には父の死ということがあって,いろいろとストレスを感じることは正直いってありましたから,もしかしたらそのあたりのことが反映されてしまったのかもしれません。
 一方,糖定性,尿糖ですがこれは4+ということで,前回と変化はありませんでした。ただ,体重の方は49㎏でしたので,少し増えました。前回は夏の盛りで,あるいは単に夏やせをしていたというだけのことだったのかもしれません。
 そしてこの日も血糖値が非常に高く,308㎎/㎗でした。検査詳細票をみますと,再済という文字が印字されていますので,おそらく再検査してみたということではないかと思います。通院の日は1日オフになりますから,起きる時間も遅くなり,したがって朝食も普段よりは遅れがちです。また,病院というのはただそれだけでストレスがかかるような場所であるとはいえるわけで,そういう意味では高くなりがちであることに理由はあるといえるでしょう。ただ,前回のときにも高かったので,М先生は血糖値計測の結果を記入した自己管理ノートを見て,インスリンを注射する量の変更を決定しました。この日まで,朝食前は0.1mlのインスリンを注射していたのを0.12mlに増量し,その代わりに昼食前に0.08mlだった量を0.06mlに減らすことになったのです。つまり,1日に注射するインスリンの総量自体は変更せず,その配分を変えるということになったのです。
 ヘモグロビンA1cは高いとはいえ,Ⅰ型糖尿病としてはまずまずなのでインスリンの総量を変更する必要はない。しかし昼食前は血糖値が高く,対して夕食前は安定しているので,それに対処するというのがこの変更の目的であるということになります。すでにこれを翌5日から実行していますが,確かに効果は出ているようには思います。あとはこれを次の通院の日にМ先生がどう判断するかということでしょう。次の通院は12月6日です。
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