スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&身体の可塑性

2010-11-26 19:35:17 | 将棋
 渡辺明竜王が突き放すか,羽生善治名人が追いつくか。第23期竜王戦七番勝負第四局。
 羽生名人の先手で角換り相腰掛銀。後手の手順の選択の影響で先後同型とはならず,先手が4筋に飛車を回って角を打つ将棋に。片上六段によれば専守防衛ということの後手が新手を出したところで封じ手。
                         
 先手が▲同角と取ったのに対して△4四歩と歩を打ち直して受けました。
 羽生名人が初めて名人になったのは1994年のこと。3連勝後の連敗で迎えた第六局は角換りの後手棒銀先手右玉でこの将棋とはまったく戦型が異なりますが,同じような△4六歩▲同銀△4四歩という手順があり,その好手順を生かした当時の羽生棋聖が名人を獲得しました。僕もそうですが,その将棋を思い出された方もあるいはいらっしゃったかもしれません。
 この後,3七の桂馬を攻める手順にならなかったのは後手にとって誤算だったかもしれませんが,徹底抗戦から攻め合いに持ち込み,終盤はどちらが勝つか分からない将棋になりました。
                         
 ここで後手は△7八銀打と打って詰めろをかけましたが,これでは負けでした。▲6四金△8三玉▲6三龍△8二玉と上部を手厚くされたところで▲6九金と銀を取られて万事休す。後手は詰ましにいきましたが,その過程で逆王手が掛かり,即詰みに討取った先手の勝ちとなっています。
 大熱戦を制した羽生名人が星を五分に戻しました。仕切り直しとなる第五局は来月の1日と2日です。

 この回復の哲学的基礎から理解できることは,もしもある人間の身体において,かつてなされていた運動が一旦は失われ,しかる後にそれが取り戻されるということが生じるならば,それはあくまでもその人間の身体の運動と関連してのみ,すなわちその人間の精神の状態とは関係なしに,徹頭徹尾その人間の身体の運動として考えられなければならないということになります。強い意志とか,諦めてしまう気持ちといったものが,そうした運動の回復に関係していると僕たちは考えることもありますが,実際にはそれは,第一部公理三でいわれているような意味では,人間の身体の運動機能の回復,ないしは回復しないこととの間に,因果関係があるわけではないのです。
 実際のところ,たとえばリハビリを続けようという意志というものは,リハビリをしている自分自身の身体の肯定です。あるいはそれを諦めてしまう気持ちというのは,逆にかつての運動を取り戻せないでいる自分自身の身体の肯定,ないしはかつて運動をなしていた自分自身の身体の否定です。このような意志作用というものが,何らかの意味で自分自身の身体のある状態と平行論における平行関係,すなわち同一個体にあるということは,前回の第二部定理四九系の考察で具体的に検証した通りです。こうした意志は,実際に機能を取り戻すための運動を身体がなしているときにのみ生じるのであって,そうでない場合には生じ得ないのです。よってそれが身体運動の回復の直接的原因であるということはあり得ません。
 ところで,人間の身体の運動のほとんど,別のいい方をするなら,僕たちの身体が実際になしている運動の大部分は,人間の本性として先天的に備わっているものではなく,むしろ一般的な人間の本性としてではなく,現実的に存在する各々の人間の現実的本性として後天的に獲得されていくものです。すなわち各々の人間の身体というのは,ある運動を獲得していくという点においては,きわめて可塑的なのです。これはたとえば「スピノザ的スピノザ」という論文で述べられていてことと一致します。しかしきわめて可塑的であるということは,逆にいうならば,各々の人間の身体が獲得している運動というものは,実はそれぞれの場合でかなり異なっているということを意味します。したがって,一口に人間の身体が運動を回復するといっても,実際には個々の身体によって,回復するということの内容が有している意味は具体的に異なってくるということになるのです。
コメント
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