第73回安田記念。
外からウインカーネリアンがハナへ。2番手以下はジャックドール,ソダシ,ドルチェモア,カフェファラオの順で続き,その後ろにセリフォスとダノンスコーピオンとシャンパンカラーが併走。その後ろがガイアフォースとソングライン。さらにメイケイエールとイルーシヴパンサーとレッドモンレーヴが併走で追走。その後ろにナミュール。ソウルラッシュとシュネルマイスターまで,集団でのレース。2馬身差でナランフレグで最後尾にマテンロウオリオンという隊列。前半の800mは46秒0のスローペース。
直線に入るところではまだウインカーネリアンが単独で先頭。その後ろはジャックドール,ソダシ,カフェファラオの3頭で併走。この中で最も手応えがよかったジャックドールが直線に入ると前に出ました。内を回ったセリフォスが進路を変更しながら最終的にジャックドールとソダシの間に進路を取り,ジャックドールを差したのですが,外からソングラインが末脚を伸ばし,セリフォスをあっさりと差し切って優勝。ソングラインのさらに外からガイフォースとシュネルマイスターが並んで追い込み,シュネルマイスターはセリフォスに迫りましたが届かず,セリフォスが1馬身4分の1差で2着。シュネルマイスターがアタマ差の3着でガイアフォースがクビ差で4着。直線先頭のジャックドールはクビ差で5着。
優勝したソングラインはヴィクトリアマイルから連勝で大レース3勝目。安田記念は昨年も制していて連覇となる2勝目。このレースは上位に入った3頭とソダシを合わせた4頭が,この条件ではほかに対して能力上位で,それぞれには大きな差がないという一戦。したがって結果としては順当なものであったと思います。レースをすれば着順も着差も出ますが,それがそのときの能力差を表しているというよりは,レースのたびに着順も着差も変わり得るという関係にあるとみた方がいいと思います。同年のヴィクトリアマイルと安田記念を連勝するのは,これまでに挑戦した馬の質からみてもかなりの偉業といえ,この点は称えられるべきでしょう。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで,4つ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントとさきたま杯と東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー。
騎乗した戸崎圭太騎手はヴィクトリアマイル以来の大レース20勝目。第61回以来となる12年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師はヴィクトリアマイル以来の大レース3勝目。安田記念は第72回に続く連覇で2勝目。
僕は第四部定理七〇を指摘しましたが,これは一例であって,『エチカ』の中にはほかにも,理性ratioが何らかの意味で悪malumを認識するcognoscereことができると解釈することができるような定理Propositioがあるかもしれません。ですから何らかの意味で理性が悪を認識するといっても,その具体的な意味はどこを解釈するかということによって異なり得るでしょう。ただ,第四部定理六八とか,これを論証する根拠となっている第四部定理六四が『エチカ』に含まれているということは厳然たる事実です。ですからそのことをどのような意味で解するにせよ,その意味がこれらの定理と反してはいけません。他面からいえば,理性は何らかの意味で悪を認識するというとき,その何らかの意味のうちに,それはこれらの定理には反しないということが含まれていなければなりません。
それからもうひとつ,第三部定理三九で,憎しみodiumのゆえに害悪を与えることを断念するとか,愛amorのゆえに親切をなすことを断念するといわれるとき,実際にそのようなことが起こるのならそれは個別的な現象として生じます。たとえば,不安metusという感情affectusが害悪を与えることを断念させるとしても,現実的に存在する人間が何に対して不安を感じるのかということは個人によって異なりますし,不安を感じるとしてもどの程度の不安を感じるのかということも個人によって異なります。しかもそれは単にある人と別の人の間で異なっているだけでなく,同じ人間のうちでも,あるときとそれとは別のときとでは異なっています。つまりある人間は不安を感じるがゆえに断念するけれども,別の人間は不安を感じないので断念しないということはあり得ますし,同じ人間があるときは不安のゆえに断念したけれども別のときには不安を感じなかったので断念しなかったということが起こり得るのです。このことは第三部定理五一から明らかだといえます。そしてこの相違が各々の人間の現実的本性actualis essentiaの相違を意味します。このことを示しているのは第三部定理五七です。逆にいえば,現実的に存在する各々の人間の現実的本性が異なっているので,第三部定理三九でいわれていることは,個別の事象と考えられなければならないのです。
外からウインカーネリアンがハナへ。2番手以下はジャックドール,ソダシ,ドルチェモア,カフェファラオの順で続き,その後ろにセリフォスとダノンスコーピオンとシャンパンカラーが併走。その後ろがガイアフォースとソングライン。さらにメイケイエールとイルーシヴパンサーとレッドモンレーヴが併走で追走。その後ろにナミュール。ソウルラッシュとシュネルマイスターまで,集団でのレース。2馬身差でナランフレグで最後尾にマテンロウオリオンという隊列。前半の800mは46秒0のスローペース。
直線に入るところではまだウインカーネリアンが単独で先頭。その後ろはジャックドール,ソダシ,カフェファラオの3頭で併走。この中で最も手応えがよかったジャックドールが直線に入ると前に出ました。内を回ったセリフォスが進路を変更しながら最終的にジャックドールとソダシの間に進路を取り,ジャックドールを差したのですが,外からソングラインが末脚を伸ばし,セリフォスをあっさりと差し切って優勝。ソングラインのさらに外からガイフォースとシュネルマイスターが並んで追い込み,シュネルマイスターはセリフォスに迫りましたが届かず,セリフォスが1馬身4分の1差で2着。シュネルマイスターがアタマ差の3着でガイアフォースがクビ差で4着。直線先頭のジャックドールはクビ差で5着。
優勝したソングラインはヴィクトリアマイルから連勝で大レース3勝目。安田記念は昨年も制していて連覇となる2勝目。このレースは上位に入った3頭とソダシを合わせた4頭が,この条件ではほかに対して能力上位で,それぞれには大きな差がないという一戦。したがって結果としては順当なものであったと思います。レースをすれば着順も着差も出ますが,それがそのときの能力差を表しているというよりは,レースのたびに着順も着差も変わり得るという関係にあるとみた方がいいと思います。同年のヴィクトリアマイルと安田記念を連勝するのは,これまでに挑戦した馬の質からみてもかなりの偉業といえ,この点は称えられるべきでしょう。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで,4つ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントとさきたま杯と東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー。
騎乗した戸崎圭太騎手はヴィクトリアマイル以来の大レース20勝目。第61回以来となる12年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師はヴィクトリアマイル以来の大レース3勝目。安田記念は第72回に続く連覇で2勝目。
僕は第四部定理七〇を指摘しましたが,これは一例であって,『エチカ』の中にはほかにも,理性ratioが何らかの意味で悪malumを認識するcognoscereことができると解釈することができるような定理Propositioがあるかもしれません。ですから何らかの意味で理性が悪を認識するといっても,その具体的な意味はどこを解釈するかということによって異なり得るでしょう。ただ,第四部定理六八とか,これを論証する根拠となっている第四部定理六四が『エチカ』に含まれているということは厳然たる事実です。ですからそのことをどのような意味で解するにせよ,その意味がこれらの定理と反してはいけません。他面からいえば,理性は何らかの意味で悪を認識するというとき,その何らかの意味のうちに,それはこれらの定理には反しないということが含まれていなければなりません。
それからもうひとつ,第三部定理三九で,憎しみodiumのゆえに害悪を与えることを断念するとか,愛amorのゆえに親切をなすことを断念するといわれるとき,実際にそのようなことが起こるのならそれは個別的な現象として生じます。たとえば,不安metusという感情affectusが害悪を与えることを断念させるとしても,現実的に存在する人間が何に対して不安を感じるのかということは個人によって異なりますし,不安を感じるとしてもどの程度の不安を感じるのかということも個人によって異なります。しかもそれは単にある人と別の人の間で異なっているだけでなく,同じ人間のうちでも,あるときとそれとは別のときとでは異なっています。つまりある人間は不安を感じるがゆえに断念するけれども,別の人間は不安を感じないので断念しないということはあり得ますし,同じ人間があるときは不安のゆえに断念したけれども別のときには不安を感じなかったので断念しなかったということが起こり得るのです。このことは第三部定理五一から明らかだといえます。そしてこの相違が各々の人間の現実的本性actualis essentiaの相違を意味します。このことを示しているのは第三部定理五七です。逆にいえば,現実的に存在する各々の人間の現実的本性が異なっているので,第三部定理三九でいわれていることは,個別の事象と考えられなければならないのです。