スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡六十一&理性への妄信

2023-06-01 19:34:49 | 哲学
 書簡六十二のおよそひと月前,1675年6月8日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたのが書簡六十一です。『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されたものの中では,この書簡が書簡三十三の次にオルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡です。実際にはこの書簡の冒頭で,数週間前に『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の感想をスピノザに送ったという主旨のことが書かれていますので,それがスピノザに届いたかどうかは分かりませんが,オルデンブルクがスピノザに書簡を送っていたことは間違いありません。
                                        
 『神学・政治論』が刊行されたのは1670年です。書簡三十三は1665年12月8日付ですから,ふたりの文通が途絶えたとして,それが『神学・政治論』の刊行に由来するということはできません。しかも,この書簡によれば,スピノザがオルデンブルクに送った『神学・政治論』はオルデンブルクに届かなかったということが書かれています。オルデンブルクは間違いなく何らかの方法で『神学・政治論』を入手し,それを読んだのですが,それを読んだのがこの書簡を書く少し前だったことを窺わせますので,なおのこと『神学・政治論』そのものが文通が途絶える要因となったということはできないでしょう。ただスピノザの思想が神学にとって危険であるということは,『神学・政治論』を読まずとも知り得ますから,そのことが文通が途絶えた要因であるのは間違いないと思います。
 数週間前に送った感想は,『神学・政治論』の内容の多くのことが宗教を害するということでした。これは書簡六十二の内容とは一致しているといえます。ただこの書簡では,スピノザが真の宗教を害することを企てているとはまったくあり得ないと信じることを発見したといっています。
 書簡六十三ではシュラーGeorg Hermann SchullerがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはロンドンにいるといっていて,この年の春からロンドンにいました。もしかしたら『神学・政治論』をオルデンブルクに渡したのはチルンハウスだったかもしれません。そのためにオルデンブルクはまたスピノザに書簡を送るようになったと考えられます。この書簡の『神学・政治論』に対するオルデンブルクの見解は,チルンハウスの影響を受けたものだったと推測されます。

 僕たちは理性ratioが直接的に感情affectusを統御することができると思い込んでいる,少なくとも思い込みがちです。同様に,ある事柄を十全に認識しさえすればそのものの混乱した観念idea inadaequataは排除され,またそれ以降は発生することもないと思い込みがちです。僕たちはデカルトRené Descartesのオペレーションシステムの下に形成された社会に生きているので,そのこと自体は仕方がないことだと思います。しかしそのために,ある感情が受動感情によって抑制されたり排除されたときに,それが理性によって抑制されまた排除されたと思い込みやすくなっているのです。これは理性への過信というより理性への妄信とでもいうべきことですが,理性への過信に気をつけなければいけないのと同じように,あるいはそれ以上に,理性への妄信には僕たちは気をつけなければなりません。僕たちは理性に従う限りでは単に合倫理的であるというだけでなく,有徳的でもあり得るのですが,有徳的であるからといって,受動感情を統御することができるわけではありません。理性から生じる感情だけが,受動感情を抑制したり排除したりすることができるのです。同様に,有徳的であるからといって,事物を混乱して認識するcognoscereことがなくなるわけではありません。理性は混乱した観念を除去することはできませんし,混乱した観念が発生することを妨害することもできないのです。もしもこうしたことのどれかひとつでも僕たちにとって可能であると思うならば,それは理性への妄信であって,そのように思うとき,僕たちはまさに誤謬errorを犯しているといわなければなりません。
 第二の課題の第一の観点についてはこれで解決することができました。次に,第二の課題の第二の観点について考察します。
 この観点は,結局のところ,悪malumの確知というのが僕たちにとって十全な認識cognitioであり得るのかあり得ないのか,またあり得るとするならどのような意味であり得るといえるのかということに帰着します。僕はこのことは第四部序言との関連で考察していますので,ここではそのことについてはっきりとした結論は出しません。そちらの探求が進捗すれば,どのような結論になるかは自ずから明らかになっていくでしょう。
コメント
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