曽我部絵日記

曽我部昌史の写真絵日記

イタリア中南部地区別メモ

2016-11-27 | 日記
イタリアから戻って、そろそろ一ヶ月。次々とやってくる雑務でイタリアでの情報をアップできていなかった。。。
今後の資料(検索の見出し)として、日程と関係無く、都市ごとのメモのみをアップ。


イタリア中部地震エリア/南から
ラクイラ

2009年4月のラクイラ地震(M6.3)後の復興まっただ中。アッシジの聖堂は3年で復旧したらしいが、ここではようやく修復工事用に足場がかかったところ(写真左手)。保存活用向けのパーツの修復スペースなどが公開されていたり、仮囲いに復旧作業手順が描かれていたりする。街の中心の東西300m×南北600mくらいのエリアでは、至るところで工事が進められている。



その範囲をちょっと外れると、外周を金属や木枠で補強しただけで、手が入る気配のない建物も多い。何時になるかは判らないけれど、倒壊はしないようにしておこう、ということか。この地震は、本震前に、群発地震があったのに対して「大きな地震に繋がる可能性は低い」と発表した大学の専門家たちが、有罪判決(6年の実刑と公職追放)になったことでも知られる。


アマトリーチェ

マトリチャーナの起源でもある食の街。8月24日の地震で甚大な被害を受けた。アマトリーチェ周辺の小都市を含め、被災したエリアが点在していて、多くの集落では街の入口を軍が管理していて近づくことができない。一方、建物の瓦礫が埋められていない限り、道路そのものが被災して車が走れなくなっているところは、ほとんど無い。



アマトリーチェでは、入れるのは学校や商店などが建つ大通り沿いまでで、その奥は立ち入り禁止になっている。北西に位置する市街エリアには入れない。小さな建物が並ぶ集落の内部は、壊滅的な被災をしているようだ。石積みの古い建物で残っているものもあれば、LGS下地のみえる比較的新しそうな建物で倒壊しているものもある。


ノルチァ

震源には近かったにもかかわらず今年8月24日の地震(M6.2)での被害が小さかったことで、耐震補強対策の有効性が話題となった街。しかしながら、アマトリーチェなどの被災状況を見たあとに見てみると、いくら耐震補強対策をしていたとはいえ、同じ揺れが襲ったとは思えない。



実際、10月30日の地震(M6.5)では複数の建物が倒壊したようだ。直径400mくらいの旧市街は東側の半分が城壁で囲われている。黒トリュフで有名らしいが体験せず。写真は、いずれも8月末の被災後に応急処置をしたと思われる建物。


アッシジ

1997年9月のウンブリア・マルケ地震(M6.4)でサンフランチェスコ聖堂のドーム(写真の塔の奥側)が崩落したらしいが、街の様子からは被災の過去は感じにくい。ロッドの補強が随所に見られる。夕食中のレストランでも揺れた(10月26日。M5.9)けれど、店の人もなれた様子。



翌朝、石墨がそのまま内装に現れる素朴な印象のサンピエトロ教会に行ってみると、神父さんが床を掃除している。みると、細かな石粒が落ちている。前の晩の地震のせいか。


ローマ近郊の山岳都市/北から
チヴィタ・ディ・バーニョレージョ

死にゆく町と呼ばれている小さな町。東西に長いバーニョレージョ市街エリアの東側に、谷を隔てて橋で繋がれる。紀元前から中世くらいまでは栄えていたらしいけれど、14世紀以降の度重なる地震、地滑り、地盤沈下で、地面ごと失った建物もあり、ついには町を繋ぐ道まで崩落して衰退の一途を辿っていた。20世紀前半にはレンガのアーチ橋もあったみたい。東西に200m、南北は100mもない。



1965年に歩行者専用の橋が繋がって、観光化に成功(日本のガイドブックではあまり見ないけれど、たくさんの中国人観光客が集まっていた)。住民は少なそうだけれど、レストランとかは割とある。宿泊も可能みたい。テレビのピノキオの舞台っていう看板があった。ホタルノヒカリでも登場するとか。


カルカータ

絶壁の岩盤でできた丘のトップを集落が覆う。その町にアプローチする直前で町を俯瞰できる視点場があるので、いやがうえにも気持ちは盛り上がる。旧市街には関係者以外の車は入ってはいけないみたいだけれど、中のレストランの前の駐車スペースには止められる。地盤に不安があって90年代までの50年間以上、住んではいけない地域として指定されていたらしい。それが解禁されて、ヒッピーやアーティストが住み始めて地域として再生したとか(年代などが今ひとつハッキリと判らない。。。)



アーティストの工房や雑貨を売っている店などもある。外階段では、元ヒッピー?らしきオジサンが新聞を読んでいたり。絶壁の岩のくぼみに小さなテーブルセットがおいてあるレストランも。あらゆる地形が使い倒されている。直径100mよりも一回り小さい。新市街は少し離れた東側。


アンティーコリ・コッラード

バーニョレージョとカルカータはローマから北。ここは東に50kmくらい行ったところ。岩山の山頂にある山岳都市としては大きめ。19世紀に画家たちのモデルとなった住民たちが住んでいて、この地域自体の風景にも惹かれてアーティストが集まったことを起源に、美術の街としても知られている。カルカータの美術との関係とは少々異なる。



ヴィッレ広場。この広場の北西側が旧市街で、南東側に新市街が接続。旧市街は南北200m東西100m弱。宿があるのは旧市街の北の外れ。広場に面してバーと食堂とスーパーなどが各1つずつ。バーの前では、暗くなるころまではおじさんたちが、暗くなってからは若者たちがトランプ。ホテルの女性が「みんな貧乏」って言っていたけれど、物価も安い。


南イタリア山岳都市/西から
オストゥーニ

有史以前からの記録が残る歴史ある街。直径250mくらいの丘全体が旧市街。北側の2/3程度が城壁で囲われる。ライムストーンでつくられた建物は、15世紀のペスト流行への対応で衛生感を生むために塗られた漆喰で、全体に白い。蹴込も含めて几帳面に塗り込められている。まさに白い街。



海を臨む丘がまるごと旧市街。道幅もさまざまだし全体に傾斜しているので一見複雑そうだけれど、螺旋状に円環を描くような道と、それらをところどころ繋ぐ路地の組み合わせ。上部の路地からは、向こうにオリーブ畑やアドリア海が見えるところも。路盤には大判の石。さまざまな文化が積層している。


チステルニーノ

200m角程度の相当閉じ気味な印象の旧市街エリア内を、細街路網が広がる。多くの道は相当狭く、車は中に入れない。外からエリア内に入る入口は3ヶ所(ってことになっているけれど、もう少しあるような。。。)で、その内の一つは階段。細街路に面して、屋外階段がたくさん張り付いているのも、ここの特徴かも。



中庭的な広場は15m×30mくらい。路地を跨ぐように建物同士が繋がれているところもあって、大きな中庭をもつ一つの建物のようにも思えるくらいの密度感。高低差はあまりないし観光地的な印象もあるけれど、密度感や迷路的移動の体験がもたらす旧市街的な趣が強い。陣内秀信さんが惚れ込んだというのも頷ける。


ロコロトンド

どこの山岳都市も丸い印象だけれど、ここではそれが地名になっている(ロコ=場所+ロトンド=丸)。直径200mくらい。オストゥーニ(海を臨む立地)やチステルニーノ(迷路的空間感)のような、これといった独自な印象は弱いかもしれないけれど、植物の様子や路地の広さの変化などが豊かで、居心地は良い。まわりを見下ろすと、トゥルッリをもつ農家が点在している。



周辺エリアには旧市街の建物をリスペクトしたような建物もあるが、イミテーションではないのが印象的。素材としては同じ石を用いるけれどディテールはシンプルに整理され、全体のプロポーションも配慮をしたようではあるものの全体の佇まいはモダン。旧市街の改修のなかには、木目がプリントされたアルミドアなどもあったので、全てにおいて深い配慮がある、っていうわけではなさそうだけれど。


マルティーナ・フランカ

今回まわった南イタリア山岳都市では(というか、この地方の中では)一番大きな町。旧市街エリアだけでも500m×300mくらいある。路地の幅はところどころ相当狭くなるけれど、車も走る。敷石が白いところと黒いところがあるのが不思議。黒い敷石自体が珍しいか。



地面に、観光案内のインデックスとなる記号が埋め込んであるけれど、朝訪れたからか、ショップやレストランの様子など、観光地的な印象はあまりない。ネットで検索をすると、中世のフランカ(=免)マルティーナ(=税)政策で人口を増やしたらしいが、本当だろうか。。。


アルベロベッロ

この地域をまわっていると、トゥルッリと呼ばれる石積み屋根をもつ円錐型の建物が点在している。アルベロベッロにしかないものだと思っていたので、はじめは少々驚いた。アルベロベッロに着くと、予想を遙かに超える観光地的状況となっていることに、さらに驚く。



旧市街的にまとまったエリアがあるのではなくて、比較的トゥルッリが多くあるエリアが点在しているみたい。租税対策でバラせる組積造とか、二重壁で雨水を貯水とか、屋根に描かれた呪術的記号とか、全部が観光ネタ。観光化しすぎて少々しらける、っていうのの典型的なまちか。


モンテ・サンタンジェロ

大天使ミカエルの聖地で、巡礼型観光地。歴史的にも安定的に巡礼の旅人を引き寄せていたようで、繁栄と衰退の波は感じられない。洞窟の地形を生かした教会や要塞での、自然の地形と人工的架構のハイブリッド感が興味深い。観光だけでは食べていけないくらいの人数規模の集合住宅があるけれど、産業はどうなっているんだろう。



マテーラ

サッシと呼ばれる岩場の洞窟住居群が南北600m東西400mくらいのエリアに広がる。古くから続く集落だけれど、年を重ねるごとに居住環境が劣悪化して、戦後すぐの頃には居住禁止エリアに指定されて廃墟に。その後、地域再生が進んで、サッシはホテルやレストランとして活用。世界遺産に登録されて、一大観光地へ、っていう流れ。



宿泊室も奥は岩場の洞窟のまま、手前側に石積みの架構で拡張されている。当然、建具などは石積み側に取り合うので合理的。エアコンやミニ冷蔵庫がピッタリ納まる岩場の凹みがあるけれど、あわせて加工をしているということか。


その他
サン・ジミニャーノ

繁栄した中世に、権力を競いあうために貴族たちが塔を建設→ペスト流行や交通網の変化で衰退→そのままの姿で放置、っていう流れで今日の観光地化につながる。普通に歩いていると気がつきにくいけれど、四角いシンプルな塔がたくさん立ち上がる風景が特徴的。その昔は、この5倍の数建っていたとか。



南北に600m程度。東西側にはそれほど広がっていない。エリアの中央にあるチステルナ広場に面したホテルだったんだけれど、吉岡さんと長谷川さんの部屋からは、南東に広がる農地を臨む。バルコニーを介して隣接していて、二つのバルコニーにまたがって食前酒。


シエナ

シエナのカンポ広場はジッテが紹介する著作ですり込まれていた(同世代の建築関係者はみんなそうだろう)。イメージしていたよりも、広さも広いし傾斜も大きい。勾配の一番下がったところに市庁舎で、市庁舎の向こう側では更に地面が下がっているのも予想外の地勢だった。

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