曽我部絵日記

曽我部昌史の写真絵日記

くまもとアートポリス

2006-08-29 | インポート

 8月21日(月曜) 


ag0821_1

藤本さんをはさんで、左端が桂さんで、右端が末廣さん。で、奥のが前の案で、手前のが新しい案。


ag0821_2

内部のようす。食器まである。(7月末にみかんぐみで打ち合わせた時の写真です)


熊本県が進めている事業に、くまもとアートポリスというものがある。1988年、細川元首相が県知事だったころに磯崎新と組んではじめた、大プロジェクトだ。

一時期(といっても、10年くらい前まで)は建築の関係者なら誰でもしっている一大事業だったのだけれど、不景気のあおりを受けたりしてプロジェクトの数が激減したせいで、知名度が下がってきているみたい。同世代の建築家から「え、あれってまだやってるの?」などといわれるほどだ。まあ、アートポリスの後を追って、類似プロジェクトが他の県でも行われていたのだけれど、アートポリス以外は全て数年で終わってしまっていることを考えると、20年近く続いているということ自体が驚きだ。


現在は伊東豊雄さんが3代目コミッショナーをつとめていて、ぼくは、熊本大学の桂英明さん、九州大学の末廣香織さんとともに、アドバイザーっていうのをやっている。アドバイザーっていうのの職務が今ひとつ判りにくいかもしれないけれど(ぼくも正確には判っていない)、アートポリスの今日的な可能性をみんなで構想すべく意見交換をしている、というところだろうか。ともかく、関係があるってことだ。


さて、そのアートポリスのここ最近の目玉といえば、昨年行ったオープンコンペ「モクバン」だ。

このコンペ、参加資格を35歳以下に限定して行ったので、名前の売れてない建築家の登竜門になるだろう、って思っていたら、最優秀案、つまり、実現することになったのは藤本壮介さんの案。プロジェクトの数がきちんとあった時代ならば、コンペに応募しなくとも藤本さんには依頼をしていたんじゃないかと思うけれど、まあ、ともかく、この、もしかしたら史上最小じゃないかって思う実施コンペをとったのは藤本さんだったわけだ。

総工費400万円を目指して(林業組合主催なので、木材は支給)、案を詰めに詰めてきたわけだけれど、今日はその(ほぼ)最終ミーティングだ。実現に向けての調整がいろいろと大変で、設計料なんてものは、とっくに交通費で消えていることだろう。
減額調整でサイズがかなり小さくなっているのだけれど、むしろ、アイデアの密度感が増したようにみえるし、プロポーションもきれいになった。明らかに良い案になっている。さすがだ。

大断面の材木を積んだだけ、っていうのがこの案の特徴なんだけれど、それを実現するために、暴露実験をしたり、変形に追従するガラスの納まりを考案したり、いろいろな工夫がつまっている。いや、犬童林業組合長の決断がつまっている、というべきか。そういった諸々のことが結実したわけだ。
こういった工夫や特徴の詳細はかなりおもしろくて、ここで紹介できるといいのだけれど、この日、カメラを忘れてしまったし、まだちょっと早いな。いずれまた。

12月16日には、そいういった、このプロジェクトをめぐる様々なことをつまびらかにする会(発表会+シンポジウム+懇親会)が熊本市内で行われる予定なので、興味のある人は熊本へ(ちょっと遠いけど、たまには、馬刺と米焼酎と辛しレンコンとラーメン、ってことで)。
(写真は7月末にみかんぐみで行った事前ミーティングのときのものです)




 8月23日(水曜) 


ag0823_1

000studio海の家外観。


ag0823_2

屋根がかかっているのは、全体の半分くらい。


ag0823_3

ディテール。積層するようにつくられている。


このモクバンコンペの次点となったのが、000studioの案だったのだけれど、この案をもとに、材木座海岸に海の家をつくったというので行ってみた(くまもとアートポリス関係者に報告をすることを約束されられたのだ)。

着いたのがちょっと遅くて、少し休んで、じゃない、一応、建築関係者らしく少しゆらして強度を確かめてみたり(見た目より遥かにしっかりしている)、ディテールの写真を撮ったりしていたら、あっという間に真っ暗になった。暗さと、格子を透けて見える風景や光の様子がとてもムーディーで、鎌倉の海にぴったりだ。重厚な熊本の山よりも軽快な鎌倉の海の方が適しているような気もしてきた。

条件的にも、海の家が

(1)日差しを遮るのが主な機能。
(2)風が抜けると気持ちがいい。
(3)濡れた水着のままで入ってくる程、内外の区別が希薄。
(4)目隠ししたくなるものも周りには少なくない。

というものなのに対して、熊本の山荘では

(1)ともかく風雨をしのぐ。
(2)ときどき来る台風は、爽風じゃなくて爆風。
(3)内外の区別はあまり無いが、水着のままにはかなわない。
(4)風景はすばらしい。

となる。とはいえ、個人的には、こっちのバンガローも熊本にできるといいなあと思うんだけれど。


この海の家、8月末まであるそうですが、このブログがアップされる頃にはなくなってるかなあ。夜遅くまで空いているようなので、みなさんも是非。由比ケ浜側がどういうわけかリトルバンコクみたいになってるのも、ちょっと楽しげでした。参考まで。




妻有アートトリエンナーレな日々 その二

2006-08-25 | インポート

8月18日(金曜)


長かった妻有アートトリエンナーレだった日々はおおむね落ち着きをみせはじめ、新建築社の撮影となった。長かったなあ。トリエンナーレは、もう会期の半ばを過ぎました。みなさん、時間をみつけて、見に行ってくださいね。
で、今回はプロジェクト紹介的な雰囲気にしようと思った結果、本文超少なめで、写真多め+キャプション長め、ってことになりました。(本文、以上!)


「妻有アートトリエンナーレ」については→こちら



ag0818_0

ふるい民家の外にできた、屋外の開放的な風呂群。緑の深い木々に囲まれている。木からぶら下がっているのがスケスケ脱衣室。


ag0818_1

外の風呂。デッキでつながれているので、いろいろな風呂を渡り歩くことができる。中央が食卓風呂、右デッキ先が山頂風呂、一番向こうに足湯(正式な名称は別にある)。建物の中の風呂にもデッキを伝って行ける。


ag0818_2

壁や床や天井を大量に撤去してつくった、大空間の土間。大きな浴室、と見立てることも可能。自作の巨大窓が二面についていて、ここからの展望も気持ちいい。


ag0818_3

外の大きな風呂は、もとはこういう姿だった。農家の池だったんですね。この頃はイモリやカエルの池。以前はコイを飼っていたらしい。


ag0818_4

途中の姿。排水ルートを確保し、池の内部を清掃。大量の廃材は、建物内部の解体で出たもので、建材として再利用したり、燃やして風呂を沸かしたりするために保管。とにかく異常に廃材が多かった。


ag0818_5

ウッドデッキと白いタイルでリゾートな雰囲気に変身。これらは全部、学生たちを中心とする自主施工。やればできるもんだ(ぼくにはタイル貼りは不向きみたいですけど)。


ag0818_6

山頂の露天風呂。普通に4人は入れます。建物を壊した廃材で沸かせるように、専用薪釜付き。使う薪はそれほど多くないのだけれど、沸くのには2、3時間かかります。


ag0818_7

すけすけ脱衣室。ピンク色のは農業用のひも。そのひもを巨大リリアン編みになっている。このひも、田んぼでは昔よく使ったものらしい。で、この写真は、学生が脱衣しているポーズを新建築写真部の浅田さんが撮影しているところ。


ag0818_8

サマースクール受講生対象のコンペで決まった、ユニットバスの外装デザイン。斉藤さん+徳田くん案によるもの。この建物の改修によって出た廃材を並べるというデザインで、夜になると内部に仕込まれた照明で、廃材の隙間から光が漏れる。


ag0818_9

2階にあった大きな廊下をさらに拡張して講義室仕様に。個室の間に新設した間仕切りを黒板仕上げにしていて、どこまででも書ける。黒板はでかければでかい程、良い。


ag0818_16

黒板の裏側にある個室。床板はそのままで、壁だけキレイに塗装。窓枠とかに「横浜銀蝿」とか「SEIKO」とかマジックで飾り文字っぽく書いてあったので、そこだけは保存されている。


ag0818_11

もと薪置き部屋。もともとの木材の荒々しい質感が、かなり雰囲気出してる。全体に黒いオイルステインで仕上げた。ゴッホの部屋(?)とか呼ばれてます。


ag0818_12

ゴッホの部屋から吹き抜け越しに講義室仕様の部屋を見る。吹き抜けは1階から屋根裏まで抜けてる。全体に黒オイルステイン仕上げなんだけれど、一本だけ雰囲気が違うので塗らずにおいたら、この柱だけ、40年前に移築した時に、新しく入れた杉の木なんだそうだ。


ag0818_13

屋根裏にはいろいろな廃材(?)が置いてあったんだけど、それを片付けて大部屋に。3階建てですね。もともとはほとんど土で汚れてたんだけど、その面影は無い。


ag0818_14

1階個室の床の間に、丸山純子さんが花を生けてくれた。ゴミ袋でつくった花。3階の部屋も、花で満たされることになるらしい。楽しみ。


ag0818_15

土間から山頂露天風呂を見る。洗面シンクも、自分たちでタイルを貼った手製シンク(実際にはかなり味のあるタイル貼りになっている)。その右の白いところがトイレの入口。




建築家仲間のキャンプ

2006-08-18 | インポート

 8月12日(土曜) 

例年、夏になると、建築家の友人たちと蔵王でキャンプをする。今年で6年目だ。

ag08012_1_2

先に着いていた笑顔の森川綾太さん(FRPの造形アーティスト)。

ag08012_2_2

ウニ

ag08012_4_2

地元のバンド「R&K」

ag08012_3_2

タイ(塩釜)をつかむ阿部仁史。

ag08013_1_2

お好み焼きの準備を前にした梅林克。

ag08013_2_2

ぼくのとこのテントのみ。超プライベート。


今年は、日程調整をしたのが遅かったせいか、お盆のまっただ中になってしまった。調整している時はお盆なんてすっかり忘れてて「ああ、そのへんならぼくも空いてる」みたいな気軽なのりで決めたんだけれど、やっぱりお盆だから、道が混んでる。いや、混んでるなんてもんじゃなかった。

ずっと妻有にいたせいもあって、準備もしてないし、夜中出発するガッツもなく、なんとか家を出たのが朝7時。東北自動車道でひたすら北上するわけだが、川口あたりですでに「宇都宮まで渋滞30キロ」の表示。まあ、渋滞することは覚悟の上だし、と自分をなぐさめたのだけれど、でも、これはまだ、ただの始まりだったのだ。

その後、30が50になり、ついには「那須まで渋滞100キロ」の表示が出た。「100キロ」!。随分長く車の運転をしているけれど、渋滞三桁は初体験だ。寝袋用の枕を両肘の下に置き姿勢を楽にして、DVDで映画を観つつ(カーナビがDVD式なので、映画が観れる)、少しずつ進む。那須の先も断続的に渋滞していて、結局、白石ICに到着したのが夕方5時半過ぎ。映画は5本。いやあ、よく観た。現地についたのは夕方6時半近かった。11時間半かぁ。

いつもの通り、初日の夜ご飯は海の幸。おっきな貝をさばいて刺身にしたり、殻ごとのウニを開いて食べたり、タイを塩釜焼きにしたり、もう贅沢三昧。

さらに、京都(!)からの、梅林克ファミリーや河井敏明が到着するのを待って、地元のフォークバンドのコンサート。「R&K」という、結構由緒ありそうなバンド。もうフォークど真ん中で、懐かしい。飲みながら食べながら音楽を聴けるなんて、もうほんとに幸せだ。食材とコンサートなどは、地元で阿部仁史さんが仕切ってるんだけど、毎年さすがだと思う。


その後は、関西におけるお好み焼きのつくり方と地域性との関係や、京都の食材の質が他の地域に比べて高い理由などについて講義を受けながら飲んでいたら、あっという間に夜中。



 8月13日(日曜) 

昼食に、なんと、昨晩の講義を体現できることになった。つまり、京都宇治地域におけるお好み焼きの実践講座。プロの手によるレクチャーだったわけだけれど、忘れないうちに、重要項目を挙げておくと、

(1)具は豚バラ、
(2)豚は練り込まず、ネタに載せる、
(3)鉄板にネタを載せたら「絶対」へらで押したりしない、
(4)火力は強く、
(5)粉は少なくヤマイモでギリギリな程度につなぐ、
(6)天カスはイカ入り、
(7)ドロソースは必須、
(8)専用マヨネーズ(順不同)。

他にもあったかもしれないが、とにかく、野菜主体でふかふかでさわやかなお好み焼き。こういうもののことを言っていたわけだな。いくらでも食べられるし、いつものお好み焼きよりヘルシーな感じだ。


で、おなかも幸せになったところで、いつもの河原に遊びに行くことになった。それぞれの車で向かうのだけれど、ちょっと出遅れた。まあ、場所は知ってるからいいや、と思ったら大間違いで、記憶は全く頼りにならなくて、簡単に道を間違えた。この道の間違いは、割と簡単に解決したんだけれど、この辺が不幸の連鎖のスタートだったんだな。


川についたら、水が異常に冷たい。何とか頑張って、昨晩からムシに刺されまくっている足を入れたら、なんだか変な悪寒がしてきた。かゆみが冷たさで麻痺して、気持ちよくなると思ったんだけれど・・・。風邪か?。

で、しばらくしたら、運の悪いことに雨が降ってきたので温泉に行くことになった。これも
、不幸の連鎖の一環か。河原は石の転がる平地なんだけれど、悪寒のせいか少し判断が雑になっていて、バックしたら後輪側が大きめな石に乗り上げ、後輪駆動のぼくの車は、タイヤが空回り。あああ。みんなが押してくれて、すぐに復旧できたのだけれど、何だかイヤな予感が・・・。


温泉ですっきりするはずがすっきりせず、キャンプ場に戻る車の中で、悪寒が明確になった。熱がある。間違いない。
ちょっと休めば、ごはんの時には復帰できるかと思い、テントで仮眠をすることにした。そうしたら、熱はどんどん上がってきて、結局、この日の晩餐には不参加。三元豚のかたまりとブイヤベースが・・・・。シャンパンのマグナムボトルもあったなあ・・・。



 8月14日(月曜) 


夕方4時半から寝始めて、起きたのが翌日朝9時。16時間半寝てたってことだ。こんなに寝続けたのは何年ぶりだろう。しかもテントで。でも、寝始めた時は「朝になったら病院で点滴かなあ」と覚悟してたのに、すっかり体調回復。
撤収も順調に済んで、渋滞にもそれほどぶつからず、横浜に戻ってきたのでした。


あ、で、後半は上記のようなことなので、すっかり写真が途切れちゃってます。ご了承ください。




北仲オープン最終回の最終日

2006-08-15 | インポート

 8月6日(日曜) 



ずっと妻有にこもってたんだけど、このままだと北仲オープン最終回(って二回目なんだけど)が終わっちゃう、っていうので、最終日の朝、早い電車で横浜に戻ることにした。またまた車は妻有に置きっぱなしだ。



ag0806_1

北仲ホワイトの玄関先には「出張お茶サービス社」。

ag0806_2

深沢アート研究所プロデュース、満開のヒマワリ。


ag0806_3

カメラ自慢中の津田さんと大榎さん。右端のモニタの人も津田さん。

ag0806_4

浅井裕介くんの部屋

ag0806_5

林華子さんの部屋


到着してみると、北仲ホワイトの玄関前には到着してみると、北仲ホワイトの玄関前には、渡辺秀明さんの「出張お茶サービス社」がお店を広げている。さっそく、妻有の肉体労働で疲れていることを話したら、乳酸を解消するとかっていう、特別ブレンドのハーブティーをつくってくれた。これを飲めば元気だ。

お茶ができるのを待っていると、通りがかる人たちから、いろいろと声をかけられる。みんなに共通しているのが「今日は横浜ですか。珍しいですね」という微妙にイヤミ(?心遣い??)なコメント。まあ、それは気にしないことにしよう。ともかく、こういうところでいろんな人とすれ違うのが、ここの楽しいところだ。


ふと隣をみると、深沢アート研究所が準備していたヒマワリの花が満開になっている。今回は、どうやら今回はヒマワリがテーマになっているらしく、加藤朋子さんのデザインによるポスターやチラシも、ヒマワリが目立っている。それにしても、会期に合わせて、全面的に満開になるとは、深沢アート研究所の緻密な計画には脱帽。やっぱ夏はヒマワリだなあ。



建物に入ると、すぐ脇にある大榎淳+津田佳紀部屋が開いていたので,ちょっと覗いたら、ビール&ツマミをいただく。花火がおいてあったり子どもがいたりして、ちょっとファミリアーな雰囲気。
そんな中、津田さんには、撮ったら巻き上げ作業(!)が必要なデジカメを披露され、さらに大榎さんの息子さんからは、みかんぐみに入る宣言を受けた。なんだか濃いぞ。


3階にのぼって、浅井裕介さんの部屋を久しぶりにのぞくと、ものやスケッチが増えていて、以前より格段と濃くなっている。どの部屋も、どんどん濃くなっているみたいだ。浅井くんからは、オンゴーイング展で展開していた樹木の収穫結果(どういう作品なのかは、いずれまた)を見せてもらった。ぼくの家の壁に大木を描いてもらう約束をしているのだけれど、ぼくの家の竣工時期の予想がつかないので、その話題にはちょっと触れにくく、少し落ち着かない気分。


浅井くんの部屋を覗きにきた林華子さんの部屋へ。実は、林さんの部屋ははじめて。やはり部屋にも船の作品が並んでいるが、それに加えて、林さんのともだちの人がアニメの製作をしていて、その場所のシェアのラインがとても不思議。互いの製作の特性を考慮した結果が、こういうものだった、ってことなんだろう。


寄って入った部屋を全部紹介しているときりがないけれど、今日は最終日ってことで、クロージングイベントがあった。「北仲米道楽」。簡単にいうと、コメ料理の腕自慢コンテストだ。
妻有アートトリエンナーレに参加している丸山純子さんが調達した新潟のおいしい米を使って、いかにおいしい料理が作れるかを競う、というもの。レシピの独自性も問われていたみたいだ(投票用紙を見て、はじめて判明)。

みかんぐみからも多数の参加があったんだけれど、チーフの嶋田が夫婦で出した「レイピラフ」がコンテストの趣旨からいってもなかなかなものだった。身内の作品に票を入れるのもどうかと一瞬迷ったものの、一応これに投票。
蓋を開けてみると、「レイピラフ」はそれなりに票を集めていたみたいで、ぼくが個人で選ぶ賞はそれとは変えて、城戸崎さんのカレーにした。この人がつくって、おいしくないはずが無い。それにしても楽しくておいしいコンテスト。新潟の山奥で労働を続けてきた体には、特に幸せな時間でした。


今回の北仲オープンも独特の企画でおもしろかった。具体的には、関わっている人たちが、お互いの活動を意識しながら、それをお互いにパワーアップするような計画になっていて、そのポジティブな気配りが、とてもうまくいっている。別にほめればいいってことではない。むしろ正反対。「人が考える」ということに対するリスペクトだ。これがあってはじめて批評も成り立つし、共同性の大前提になる。デザインを考えるのには不可欠だ。こういうリスペクトのスタンスを、北九州デザイン塾関係者にも学んでもらいたいものだ(前回参照)。
まあ、ともかく、北仲オープン関係者の皆様、お疲れさまでした。



おまけで、コンテスト後、曽谷朝絵さんに似顔絵を描いてもらっちゃいました。


ag0806_6

廊下や階段にも作品がたくさん。これは、曽谷朝絵さんの作品。ペンキのはがれたところに色が入っている。


ag0806_7

曽谷さんが描いてくれた似顔絵とキャラバッジ(加藤さんデザイン。ブリッくん&ほわいトン)。





北九州市(北九州デザイン塾)は、かなり問題じゃないか?

2006-08-04 | インポート

昨年秋から、北九州市が行う「北九州デザイン塾」というのに関わってきた。

北九州周辺の大学に通う学生たちが参加して行う、ゼミ的なもので、ぼくは、その第一回目として、家具を考えるワークショップ(というよりはゼミ)を昨年の半年間行った。具体的には、現在建設中の、北九州イノベーションギャラリーという建物で使うことを目的とした家具を、九州工業大学とか北九州大学とか近畿大学とかの学生たちが集まって議論しながら考え、模型やスケッチをまとめる。

ぼくは、このゼミの先生というか進行役みたいな役割だ。参加する学生たちは、建築やデザインと必ずしも関係なく、経済とか文化人類学とかを専攻している学生もいて、家具のデザインとしては技術的な水準として不十分なので、最後は実際に製作が可能なものとなるよう、みかんぐみで図面をまとめる、ということになっていた。



で、ここで「デザインを考える」という意味では、大変重大な問題が起こった。
背景をまとめると、


・ 実際に製作し使用する家具をデザインする、というのが前提。
・ 学生たちは、実際にできることを夢見て、頑張ってきた。
・ ぼくはそのゼミの座長(責任者)
・ 建物は、建設中であるものの運営方針はかなり未確定だった。


というようなかんじ。そこで、この建物の中でデザイン対象となっていたのは、大きく分けると、


・ 情報ライブラリ(いわゆる図書館的なスペース)
・ カフェ
・ 多目的スペース


の3カ所で用いる家具だ。3つを合わせると、お客さんが来るエリアのかなりの部分をしめている。


さて、で、何が起こったのかというと、上記三カ所の内、情報ライブラリの運営方針が大きく変更になったのだ。運営方針が曖昧なのだから、変更になること自体はやむを得ないことだろう。家具デザインの前提が大幅に変わったのだから、デザイン塾で考えてきたアイデアは使えなくなった。どうも、そのままのデザインの調整でいける、と思った節もあるけれど、それこそデザインに対する冒涜っていうか、普通に考えるとはじめからデザインし直すのが筋だ。


この状況が発生したのが、ちゃんとメモを調べてないけど、5月の中旬。成果品をまとめる約束の期日である5月末の直前だったと思う。そこでぼくは、


・ 情報ライブラリの成果品提出はしない。
・ 残りの部分の成果品の出し方を指示してほしい。


という方針を伝えた。
情報ライブラリについては、学生たちが半年かけて考えてきたのを、「状況変わったら、みかんぐみでまとめときました」なんていう勝手な大人のやり方に加担するようなことはしたくなかったし、再度デザイン塾を進めるにしても、タイミングとしてはちょっと手遅れだ。で、上記の方針となったわけだが、そのときに、デザイン塾の代表として、今回の状況について「こういう理由で条件が変更になったので、情報ライブラリについてはできなくなった」というように、参加していた学生たちに対して、説明と謝罪をしてほしい、と要請した。デザインする行為を尊重することが、デザイン塾という枠組みでの教育の第一段階だろうと思うので、それは当然のことだと考えた。それを無しに、残りの部分の成果品を出してしまうことは、学生たちのやったことなのでそういうことはだまって勝手にやっていい、という考え方に同意していることにもなってしまうと感じたので、この説明と謝罪はとても大事なことだった。



この要請に対してのリアクションは、ずっとなかった。この要請は、このギャラリー運営全体を統括している人に伝えていたのだけれど、再三、残りの部分の提出について指示してくれ、といっていたのに、何のリアクションも無く、7月に入って、突然市から、成果品について説明に来い、ときた。


上記の要請を再確認したら、今度は、「まずは製作を進めて、全体が完成した時のお披露目として学生を呼んで、そのとき、実現できなかった部分があることを説明する」ということにしたい、という。なし崩しで結果オーライに持ち込もうっていうことか。なぜ、一言の謝罪ができないのだろう。学生たちの手によるものであっても、デザインする、というプロセスが間違いなく存在していたのだから、どういう状況であっても、そのプロセスへのリスペクトがあっていいはずだ。


で、再度の要請に対しては「無視」という対応となった。つまり何の返信もこなくなった。一言の説明(つまり学生たちの作業への配慮)があれば、残りの資料をすぐに出せる準備はできていたのに。穿ってみれば、落としどころは始めから決めてあって、時間切れになるまで引き延ばした、ということなのかも知れないけれど。



このプロジェクトに対して、みかんぐみはクリエイティブな期待をもって進めていたわけでは当然なかったのだけれど(学生たちのクリエイティブな活動を技術的に支える立場なのだから)、少しでも良いものになるよう努力することが、参加した学生の気持ち(夢)に応えることだろうし、デザイン塾の成功には不可欠だろうと考えた。だからインテリアデザインを専門としている人に入ってもらい、実物モックアップもたくさんつくった。普段の設計でもここまでお金をかけない。実際100万円ちかい費用が、この「少しでもいいものに」するためにかかったわけだけれど、これも全部無駄だ。こういう配慮をしてきた事自体がすごく悔しい。



今回の問題の背景としてあったのは、運営が不明確なのに、かなり特別な仕様の設計でつくり込まれていたこともある。不明確ならざっくりつくっておけば良いのだけれど、その逆だ。将来的なことを考えても、こういうタイプの公共の建物が、こんな固定化のされ方をしていてよかったのだろうか?関わっている途中で疑問に思ったのだけれど、建物の変更を主張する立場ではないとおもってしまった。直した方が良いものは、そのように強く主張すべきだった。そうしておけば、また別の可能性があったかもしれない。これは大きな反省だ。



さて、繰り返しになるけれど、デザインを考えるプロセスを尊重することが重要であるという認識の無い人が、デザインを語ってほしくない。そういう意味で、今回の問題はかなり大きい。何しろ、この建物というか施設の存在理由すら揺らぐものだから。


もしかすると、市側に残っている資料でデザイン塾の成果品として適当に家具をまとめるかもしれない(まあ、まさかそこまで意識が低いとは思わないけど)。そういうことをするのは(仮に言葉の上で本人たちが納得したとしても)、学生たちを、デザインプロセスを尊重しなくてもいい、という構造に巻き込むことになる。そんなかわいそうなことだけは、起きないようにしてほしい。要請しても無視されるだけだけれど。
(こうやって文章にまとめたら、問題の性格が自分のなかでもかなり明確になってきた。この問題は、デザイン不在の日本の現状と行政的自尊心との関係をシンボリックに表しているように思う。そういう意味ではいい題材だといえる。これからもいろいろなところで、この問題の本質を深めて行きたいと思う。)