曽我部絵日記

曽我部昌史の写真絵日記

邑楽町に対する建築家集団訴訟

2006-09-12 | インポート

 9月11日(月) 


邑楽町といえば、役場庁舎のコンペのとき話題となり(かなり多くの建築家が参加したはずだ)、最優秀案として選出された山本理顕さんの案で話題となり(自由に組み替えられるユニットを積み上げてできるというもので、ギャラリー間での展覧会のときには、実物ユニットが中庭に置かれていたし、チラシもポスターもこのプロジェクトだった)、それが町長が代わったことでいつの間にか別の人が設計することになってしまったというので話題になり、そしてそのために山本さんが町を相手に訴訟を起こしたというので話題になった。


もう十分話題の町なわけだけれど、今回ついに、建築家の仕事をめぐる役所的体質を問題にした集団訴訟がはじまった。訴訟という形式としては「邑楽町のコンペに参加した建築家たちは、コンペの公平性を信じたからこそ案をまとめるための無償の努力を自らに課してきたわけで、誰がつくるかわからないようなコンペであったら、そんな無償の努力なんてするわけ無いじゃん。仮に専門職のぼくたちに委託研究みたいに提案書の提出を求めたら、それなりのフィーが必要なものなんだけど、知ってる?」っていうもので、つまり、町はわれわれに、提案書を委託したときに必要な金額を、支払う義務がある、っていうもの。

で、真相というか深層としては、役所的な、つまり、閉鎖的(非市民的)で手続論的(非本質的)で独善的(非公正的)な体質が、つまり、これまで通りのことを何となく続けて、税金の有効活用とか市民のためっていうよりは、保身あるいは売名的なほうに向かってしまうような体質が、どれだけ建築や、建築が集まってつくる都市景観をひどいものにしてしまっているのかを問おう、というものだ。

役所的っていういいかたがこんなことを意味してしまうこと自体、かなり悲劇的だけれど、一握りの役所的体質の役所の人が、こういう状況を維持してしまっているわけだ(ぼくの知っている、大半の役所の職員の人たちは、町をより良くしようと努力をしている)。

そういう意味で、ものができ上がるプロセスに無配慮なのはいかにも役所的なわけだけれど、この問題、ここ数ヶ月で一番腹も立ったし、あきれて失望もした、北九州デザイン塾の話と、とってもよくシンクロしている。デザイン塾の方は、結局、市への質問への回答はないまま(=無視されたまま)なのだけれど、学生たちが知らないままでいるのはあまりにもおかしいので、ぼくの方から「どうやら、デザイン塾は実践されないことになったみたい」と報告をした。
何人かの学生たちから返信が来たのだけれど、みんなに共通しているのは、

(1)とても残念だけれど良い体験ができたと思う。
(2)市からなんの報告もないのは残念だ(授業との調整だって大変だったのに)。
(3)役所のやることなんだから、こんなものかと思う。

の3点。
問題は最後のコメントだ。人によって言葉は違っていて「やっぱりな、と思った」とか「結局こんなもんなんだろうな」とか「それほど信頼してなかったけれど落胆はした」とか、若くてチャレンジングに頑張ってきた人たちを、一気にあきらめさせてしまっているのだ。

邑楽町への集団訴訟は、この役所的対応に対するあきらめの構造と、それによって引き起こされる都市(景観も空間も)の質の低下を問題にしているということもできる。


それにしても、政治的にうまく立ち回ることをせず、面倒だからまあいいかと目をつぶることも無く、おかしいと思うことに自信をもって立ち向かう山本さんに、敬意を表したいです。野武士は、いまも野武士だった、ってことか。
(みかんぐみからは、竹内とぼくとが原告として参加してますが、訴状では、竹内が代表になってます)


※下のリンクをクリックすると、PDFファイルが開きます。
設計者集団訴訟訴状完成版060911.pdf
邑楽町呼びかけ文.pdf