つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

一手に千手を見る人になるために

2012-08-13 | Weblog
般若心経を正しく理解できなくて何の功徳がありましょう。
般若心経を理解できなければ、すべての経典が理解できない。

頭脳明晰な者は、難しいことを簡単にして取り扱えるようにする。
難しいことを、なにやら特別な技なくして扱えないというのでは、有能な者とはいえない。
難しいことを難しく扱って誇るのは愚かな者に値する。
難解なものの答えは単純にある。

扉を開け、中に入って迷ったら、そこで扉を開けなおせばよい。
体は迷いの真っ只中にあれど、心は自由、仕切りが無い。いつでも戻れる。空間と時間を持たないために。
そこに体の束縛が解き放たれる。体は心に付き従うものである。
心は自由であることを忘れない。

進化すればするほど、難しいことが簡単にできあがる。
それを、御蔭様としないで、自分の才腕として誇ると痛い目にあう。
自分の才腕など高がである。

感謝に値して事は成るもので、その念いを無くして何事も成就はしない。

般若心経を説いたのは観自在菩薩である。生前、釈迦の訓えを行じた修行僧、
その修行を同じく行じている舎利子に縁となって降臨、舎利子の口を借りて語られている。
そのために、あの世の世界、それも悟りの開かれた人の世界から語られているために、
あの世とこの世の仕組みを説き、死んでも人はなくならないものであることを証明したものである。
釈迦の修行が正しいものであり、しかしながら、釈迦のように優れた人ならば分かるが、一般大衆は
優れた根性も無く、厳しい修行にはとても耐えられる力もない。そのために、いくら修行したところで悟ることは皆無に等しい。
それでは何のための、誰のために教えがあるのか意味がなくなってしまう。救済を目的として悟りを開いた菩薩は、
修行をしなくても、また、宗教に縁をもたなくても、それこそ大ばか者である人こそ導かれる対象であるとして、分かりやすく簡潔に
悟れる方法を解き明かした。さらに、当然誤解してしまうであろう事、疑うであろう人のことを憂いて、くれぐれも心経に使われている文字に
惑わされないようにとお願いをして説かれている。決して難しいものではなく、誰にでも理解できるようにと説いている。
故に題名を、般若とし、一般の人々の多くの悩める心をみがくために摩訶波羅蜜多心として、摩訶般若波羅蜜多心経と説いたものであることを示している。
舎利子の語りを聴いて、大衆はギャーギャーと喚起の声を上げて心経を褒め称え、広まっていったと示されている。
くれぐれも惑うことなくと心配をして・・・
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