つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

諭すのみ

2024-07-28 | Weblog
「民衆と言うのが、如何に卑劣で定見が無く、軽薄であるかを知っていなくてはならない。また、民衆の資質が盲目的で非理性的で判断が無く、左右どちらにでも容易く動かされることを知らなくてはならない」。(上杉鷹山の言葉)
手先が器用で要領が良く、人の心理をよく勉強していれば、思惑どおり誘導することができていく。これらは、「前以って」の観念形態(イデオロギー)を利用している。
サブリミナル(潜在意識)に働きかけて誘導する。不思議と誘い込まれる。およそ3か月の間をもって仕掛ける。仕掛けられるほうは不可思議とするために、容易く引っかかる。それは、自らの判断としての行動となるために、自己責任となる。が、マジック・トリックである。
私は掛からないとする人ほど掛かりやすい。学識豊にしてもとされる。
この世に超常現象とする現象自体存在しない。なぜなら、存在の法則であるエネルギーを超えることはできないためである。例えて、もし超えたとしたら、存在しなくなるためである。常を超えて見えるのは、私達がまだ知らないだけである。稀にあるだけの事。科学が進歩、進化していくと、昔不可能としていたことが可能となっていくように。まして、ミクロの集まりのマクロ的事物であるために、稀にミクロ的振る舞いをする。元は「微」にしてあるためである。それは、偶然にしてランダム(無作為)である秩序にある。「まさか」が起こるのである。
「意識」する。
ある勝負事で、私が見ていると負けてしまうので、見ないという人がいる。
当たるも八卦当たらぬも八卦であるが、どうしても気になって見ていると、十中八九負けてしまう。「ほらっやっぱり」という思いに、複雑に一喜一憂する。これが不思議な自らに由る思い込である。自由とは、かくも自らに由るとする。だから、自由を動かせるのは、自分しかいない。他のいかなるものでも、その人の自由を束縛することはできない。もし束縛すれば、束縛したものが不自由となる。だから、神とて、手は出せない。知的生命体であればあるほど、諭すだけである。
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