つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無知なる者、恐れを知らず

2018-09-27 | Weblog
終活という言葉をよく耳にするようになった。
人生の卒業、それほど老人が多くなっているということだろう。
最近ふと思う
死というのは、前からくると思っていたが、実は後ろから迫ってくるのだと感受する。
まして、生活習慣の悪さ、食生活の乱れなどによって、追いかけられるという感がある。
まだ、寿命ではないのにお迎えが来る人が増えている。
若くして、働き盛りにして、或いは、80,90、100歳にしても、
寿命というのではなく、
災害に見舞われたり、不慮の事故に遭ったり、病魔に侵されたりして苦しんで死んだりする。
それは、不意である。
本来、人間、老衰で天寿全う、言葉通り͡寿ぶく命であるはずが、
寿に至らず、人生半ばにして卒業しなければならなかった大半の人々である。何がいけなくて
死王に見初められたのか?
いつかは誰でも死に逝くものであるのが道理であるのだが、
不意に死ぬとは実に心苦しいものである。

死王に見初められる二通りの感受。
一つは、人生半ばにしてすでに悟りを得、
人生達観となったために、これ以上の人生に意味は無く、別世界への次元上昇移行
と判断された由、∴心残りは起こらない、それとなく知るために、恐怖もない。
一つに、今生に於いては、これ以上生きていても、此の身
徳にして得となることがなく、
更には、他に害多くあるものとして、人生無意味と判断となったための二通り。
一つは、無常にして寿ぶく命の寿命であり、
あと一つは、無常にして輪廻転生という寿命である。
一つは、天性であり天成、寂静の辿り。
一つは、やり直しの寿命を得、悲哀にあり苦から学び取る。
輪廻は一切皆苦であるも、やり直せる機会を与えられたことでもあるために、
慈悲にある寿命、良くも悪くも心がけ次第として現象する。
心して苦を乗り越えよという意味合いを持ち、気が付くものはやがて
輪廻を離れる。
道理は、種の保存であるために、人は人としてのみ転生する。他の生物に
生まれ変わることは無い。が、人生、人で無しという行為に由れば、
人でなしであるために、人ではないものに生まれ変わる。
ここで初めて、種の保存を断ち切る。
人でなしの行為の相応以上の非情に生きる種になる。これは、
自然の流れである。
自然という字をよくよく見てみるとよい。
'みずからしかあり'と書いている。

悪を為す者に智者は言った。「汝等は知らないからである」と。

  






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