つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

涅槃寂静、すべてがエネルギー

2018-09-28 | Weblog
人生、どのように生きたか?その行い、つまり、業は
本人がいなくなっても、消えてなくなるということは無い。
いわゆる、起きた業に対しての報いが行われて、はじめてその業の存在が処理される。
プラスマイナスゼロとなるもので、無かったことになる。
良くも悪くもという報いがあって、業のチャラとなるのである。

業の報いが行われないうちに、その本人が死んでしまったとしても、
業そのものはなくならないために、いつかの本人という魂そのものに報うのである。それは、
何世代先に報うのか、はたまた次の転生に際して報うのかは定かではない。が、
必然報うのである。報われて初めてその業は消える。魂は無垢になるもので、
転生された人生は、賞罰のない綺麗な状態で生きることになる。だから、
不意な天罰に遭うことは無い。

不意にとして害されるのは、人間の無知なる記憶によるものと、
新たに起こした業に由るものに関わる。
無知なる記憶は、生命エネルギーの根本に刻まれているもので、
生命エネルギーの性質とその格に関わり、作り上げられる。
自分の性質性格は、生命エネルギーの幾多にわたる人生経験が
統一されて塗り替えられていったもので、今の自分を象っている。
転生するごとに生き様が刻まれ、生命エネルギーである心が作られていく。

エネルギーは動くものであり、そのために変化していく。
常に変化していくものである為に無常という。
この無常が常住となっているのがエネルギーである。
だから無くなるものでなく、それ故にそこから生じている万物は、
絶えず変化して存在していく。無常をもって経験したことが、
常住となっていくために、このエネルギーの性質、無くならないものであることを理解すれば、
矛盾が明らかになっていく。なぜ生まれなぜ死んでいくのかも理解できていく。

エネルギーは円運動である。エネルギーから生じている生命も円運動となっている。
だから、私たちはいつも同じことを繰り返している。
行ってきますと家を出て、ただいま戻りましたと帰ってくる。
すべてが円運動となっていて、くりかえす。
そこから学習して、常住であるエネルギーにかえっていく。
エネルギーは円運動であるために真円である。ゼロの姿形で常住。
動いているが動いていることすらわからない真円という綺麗な姿形。
これがこの宇宙の正義である。円運動の正義であるために、これを学習して正しい悟りとなる。
寂静が真円である。
魂はここを求めて、この中心に還るために、涅槃寂静に入るために、
幾多輪廻の苦しみを味わって学習、悟りに至る。人生はその辿りである。
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