つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無意識なもの

2013-09-22 | Weblog
人間というのは群れて生活している。
その意味で、互いに共存共栄を知らなければならないのであるが
同じ群れの仲間でありながらも差をつけたがる。優劣という違いを好み、
私はあの人とは違う、あの人よりも優れているとすることを誇りとしたがる。
協働ということを知らない。一時の協同に過ぎないものである。そのために、協調性に欠けて、一時を過ぎれば排除しようとする。
その思いが格差を作る。

確かに同じことをすることにおいて時間の問題が起こり、過ぎてしまえば元も子もなしとしてしまう
時間に縛られた生活をしている。
遅くて間に合わないという能率の差を生み、それは、「過ぎたるは及ばざるが如し」という一理に縛られて、そのために、
‘過ぎる’ということは過ちとも読まれてしまうほど時間に拘束されて生きている。
間に合うとは何だろう?間に合わないとは何だろう?役に立つ、立たないとは何だろう?長短所とは、個性とは、過ぎ去るとは、・・何だろう?・・
・・不必要なものはこの世にはなく、必要であるから生じているものである。そう知れたなら
偏に責め立てるということも如何となる。知らないというところに非が起こり無礼、非礼となる。
まず、自分を戒める。

現実は時間に縛られて、時間厳守が信用に値するものとなっている。それには、‘命短し’という人の動物としての時間により、
この世であるためである。
脳は肉体に司り、いろいろと戸惑る、迷う。動物という肉体に由るために、肉体を超えたところにある心をなかなか理解できないでいる。
心にはそもそも時間というものがなく、概念があるだけで、外部から受ける刺激をどのように見ているかにある。
肉体による脳は時間に支配されているために、とかく見るもの聞くものに惑わされて動く。素直に反応する。錯覚というもの幻覚というものが起こり、
それをどう心が受けるか、智恵が廻っているかでよく制御されるが、心が脳を離れ、客観的であれば瞬時物事はよい判断がつく。
時間の概念を自由とし、臨機応変とするためである。
心は悠久にあり遅延は無い。遅いも早いも関係がなく、「正しくできた果」の果にある。
それは、前(先)は後であり、後は前(先)でもあるためで、時間が流れているという概念がない。
「是」に由るためである。それゆえに、努力は好い果をもたらし無駄となることは無い。無駄とするのは時間に支配された脳の勘違いである。
時間の支配を離れている心には勘が働き、正しく感じるものである。

脳はよく惑わされてしまうが、その惑いに心まで迷わされてしまえば判断も誤る。
脳が反応しなくなっても肉体が動いていれば、つまり、内臓器官が動いていれば人の死とは言わない。
脳が反応しなくなってしばらくすれば内臓も止まってしまう。内臓が止まって初めて人の死となる。
内臓が人の意識で動くものではなく、法の動きとなっているためである。
その内臓がまだ動いている段階で脳死が人の死となってしまい扱われると、その人は断末魔、地獄となってしまう。
人の勝手に、人を地獄に落としてはならない。
人の意識でなく動いているものが、つまり、法の動き、自然に動かなくなって初めて、人は安らかに旅立っていけるのである。
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