つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自浄其意

2011-03-25 | Weblog
生きていくのには金がかかる。
まして、便利になればなるほど金がかかる。
便利とは自力を極力排除して他力によるものであるためだろう。自分でできずに、
かゆいところに手が届けば届くほど金は要る。
金が無ければ極力自力で、また、我慢我慢と耐え忍ぶ。
情けない情けないと、自分でできないもどかしさに明日が曇り、未来が曇る。
他力に頼った生活になれて、生きる命を他に操られる始末になって、
慌てふためいて、生きる権利を主張する。自然には権利も何も無い。あるのは道徳。
金も何も無い。あるのは道理。

道の理を情けの杖を突いて歩んでいくと、行く先倒れることが無く、徳が積まれて得をする。
自然の慈悲の慈である。情け知らずで歩いていけば非情、慈悲の悲になり苦しむばかり、行き倒れ逝き倒れ。
自然の摂理である。

現代、人は環境にあわせて活きるのではなく、環境を変えて活きている。
環境を変えて活きているために、環境に対応できなくなっている。体の進化は無く退化していく一方である。
他の生物にも無理やり環境の変化を与える。そのために、自力で生きられなくなってきている。
共存共栄は建て前で、競争と独裁、お山の大将になりたがる。

たとえば、本当に身近にいる犬を見て、犬はなぜ全身毛むくじゃらなのか?知らない。自己満足のために支配したがる。
毛だらけの体に衣服を着せて、‘ご満悦の犬’をこしらえた。
まして、毛が無い犬までこしらえて、人の我がままで、人の手なくして生きられない哀しみを与える。
鎖につながれた犬が、鎖があるのを自由と思う哀しみを与えて。

あらゆるところに支配をしたがる。

自然は唯一客観である。あらゆるものの創造主である。支配されることが無いものである。その
道理に合わないものはただはじかれてしまう。道理に合えば徳を積み得をしていくものである。
人も自然の産物である。
その人が、争い、あげあしの取り合い、蹴落とし、我先と、損得勘定見え隠れ、人の弱みに付け込んで等々。
意において、行為において、言葉において、正しくそろってなければ、
助け合いにはならず、人という字も崩れて、自然に淘汰されてしまう。
きれい(浄化の法則)に適わないために。
渾身改めて、損得(欲)なくしていかなければ、「そして、誰もいなくなった」がやってくる。
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