つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

一念通常に非ず

2014-06-14 | Weblog
こうも年寄りが多くなってくると
情報も何かと死んでいく様の事柄が目につく。
50.60.70ともなってくるとあの世の事が気にかかる。
どう死んでいくのだろうと思うも、50はじめではまだ気にかかることも少ないが、
さすが60,70ともなれば死に逝く様が気にかかるものだ。
寿命として、早ければ50からぼちぼちにしてこの世とおさらば、70ともなれば
ほとんど半分がハイさいならと旅立つ、80でピンピンころりは幸せ者の寿ぐ命。
あそこ痛いここ痛いと生きているのも辛くして、天涯孤独も淋しくして因果なものでも、
家族に介護の迷惑を掛けながら生きているのも辛いもの。長生きもほどほどが現代版姥捨て山社会。

この世の未練とて、執着こそ苦しみである。生き辛い世の中に何の未練がありましょう。
とっとと逝けるものなら逝きたいと思うも、何一つ自由とならない宿命運命、それを寿命とはつまらない慰め。
閑して持て余すのも無知なる生き様の業、えさの無い沼地にぽつねんと佇む鷺のように、おいぼれである。
それでも、病んで死ぬ人がいれば、鬱ともならずに死に憂いて生きて、寿ぐ命という者である。
いまひとつ、仏の一字に目をやり耳を聴きたてて、それさへ出来ていれば老い惚れて、黄昏染まる人生も満更ではないのである。
老い耄れではない、老いに惚れてこそあの世が希望となっているのである。
さて、闇に吸い込まれ包まれていく想いのブラックホールと思いきや、
光放たれていく世界に身を泳がせられるのである。
宙(そら)を見よ、漆黒の闇に包まれているではないか。まさにここはブラックホールの中にあり、
引き寄せられる運命の力に吸い込まれて、ホワイトホール、希望の光に満たされた世界に放たれるのである。
それが寿いだ命の世界。極楽浄土にして、業によって見え隠れする天空の地である。
今私がいるここより西の方十万億土の彼方に霧が漂い見え隠れする様である。
心の霧もその霧も同じ様。払っていつも見える国土である。

心の目で薄れゆく人生を見ませう。
無駄にしてあるはずも無い人生である。
それは日常とかけ離れてある思いにこそある。
平凡にして生きても平凡として思い起こしてはならない。
心には時間なんてない。一瞬にして間に合うものである。
だから、希望となるのである。
心をみがけ、平凡にしてはならない。
一念岩をも通すと
架空ごとで語られているのではないものである。
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