つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

首のすげ替え

2024-08-01 | Weblog
新聞という情報媒体、偏っていては公平性に欠ける。
公共の電波を使って報道するラジオ、テレビなども同様であるが、今や各報道機関どこも情実的にあると思われる。それなりに好みはあるだろうが、公という立場にあれば、公正でなくてはならないのは当然の然りである。
が、特別扱いをする感情がまじり、偏向報道と捉えられることが大っぴらに見て取れる。公然と悪事を為す今の政権党と同様にあるように感じる。
「知る人ぞ知る」にあるも、「赤信号皆で渡れば怖くない」とする風潮が蔓延している中では、迂闊に指摘できないだろう。善悪転倒の社会とは、善かれと思う指摘が仇となる。だからと言って、黙っていては世の法則に反する。世の中、
構成されている社会が歪にあれば、必ず衝突が起こる。それは、止まる寸前の独楽(コマ)のような動きとなっている。著しく急ぎまわり、千鳥にそこら中に衝突し、弾かれて止まる。今、まさにそのような状況が見て取れる。
あちこちに入れ替えの時期が迫る。否応なく規則は規則として動いてきた社会、世の中だから、やはり否応なく従い変わる。ある意味「更迭」という入れ替わりが適当とされる。どんなに世の中、策略的であっても、回りは善運動の自由となっている。今までは、善悪は人の意識の中にあったが、宇宙の意識に善悪は無く、故に善運動が本質である。そのため、必然誤った意識の人の思いは正されていく。栄枯盛衰の内にあり、すべての物事はこの範疇にある。
だから、世の中は、善い人でも悪い目に遭い、悪い人でも好い思いをするが、
終には善い人は良いところへ、悪い人は悪いところへ赴くのである。
「終には」というのは、人は必然死ぬ者であるから終を得るが、その人を動かしてきた魂には死というものがない。そのため、肉体から離脱した魂のいく先は、人の業によって明確に分かれている。地獄と極楽(天国)である。これは、魂に死が無いために分かることである。地獄は、足腰立たないほど苦しめられるため、地獄に落ちたら出てこられない。出たくても叶わない。極楽(天国)はあまりに楽しい世界であるために、この世に未練を持つことはなく、帰ってきたいとは微塵も思わない。人、肉体から離れて(死んで)はじめて知ることであるが、失敗したと気づいても一瞬、どうにもならない絶対世界である。だから、生きている間に気づき、悪いことをしない事である。生きていれば、正せる夢があるからである。
人生、ただ事物に執着して金金金と求めて生きている。が、どんなに執着しても、あの世には不要、それに気づかない人々がほぼ100%。
「しまった!」として、あの世を見る。
金銀財宝、すべてこの世に捨てていき、残された者の骨肉の争いを知るだけである。憐れにも、法則を知ることの無い人達(魂)の哀(悲)しさである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする