つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

この世は「受」の世界

2014-09-27 | Weblog
近頃、老いも若きも時の経つのが早いという。
子供の頃は、時の経つのが緩やかに過ぎていくものと感じられるのがふつうであるが、
何やら近年はそうでもないらしい。
子供にして、日々過ぎ去ることの早さを感じているらしい。

昔も今も時の流れには寸分の狂いも無いものだ。
人の文明が進むにつれて、時間の短縮というものは何かにつけて成されるわけだが、
それに相まって行動の範囲が広がるために、更に時の経つのが早く感じられてしまうものである。
数値では、行動の速さに連れて時はゼロになっていく。それは、瞬時になればなるほど時は無くなっていき、
過去と未来の界が消えてしまう。
自分の行為が緩慢になれば、時に置いてけぼりになり、瞬く間にという受け答えになるのだが、
自分の行為が、
文明の機器に任せて瞬く間を得ても、時を置いてけぼりにするために、受け答えは無くなる。
それは、現実としてありえない状態になるのだが、事実として受け答えてしまう。
この世の数値として現されないが、現実として時の境界を行き来してしまうために、齢は取らない。
数値はゼロを指したままにある。
それが、エネルギーそのものの世界である。それをどのような様子と見れば、
夢であり、肉体の無い死後の世界の様である。
夢も死後の世界もエネルギーの自由の世界であるために、生前のような世界観であるが、
感は飲食のいらない世界である。自由に甘んじる世界である。
なぜ?という疑問の呈しない世界である。それが、自由である。
自らに由るもの、自らに然り、自然という自由である。

心はエナルギーであり、受想行識で作られていくものである。
その記憶が大きく心を左右する。
右か左か二つに一つである。それがエネルギーの絶対世界であり、
その選択が、曖昧という起伏の過程にして到達していくものである。
それも自由にしてあるものである。エネルギーであるためである。
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