第一説・護法の説(正義とする)
「論。不覆誑諂至貪癡一分故 述曰。不覆・不誑・不諂三法。是二善根一分。隨應正翻貪・癡一分。無貪即翻貪分等。故言隨應。者義更等取六十二中不憍・不詐等。此中不覆所治之覆。有貪著名故覆罪。有癡故覆罪故。今無貪癡一分。論唯説是癡分。起必有癡故。以理釋之。」(『述記』第六本下・三十一右・大正43・440a)
「論に不覆と誑と諂とは無貪・癡の一分なり、応に随って正しく貪・癡の一分に翻ぜるが故 に。
述して曰く。不覆と不誑と不諂との三法は是れ二の善根の一分なり。応に随って正しく貪・癡の一分に翻ず。無貪は即ち貪の分等に翻ずるが故に。
随応と言うは、義を以て更に六十二の中の不憍・不詐等を等取す。此の中に不覆の所治の覆は、有るは名に貪著するが故に罪を覆うなり。有るは癡なる故に罪を覆うなり。故に今は無貪癡の一分と云う。論に唯だ是れ癡の分と説けるは、起るとき必ず癡有るが故に、理を以て之を釈す。」
覆・誑・諂については前回のべましたが、能治の、不覆は、自己の罪を隠さない心の働きであり、不誑(フオウ)は、自分に説くがあるように周囲を偽り欺くことがない心の働きです。また不諂(フテン)は、他に合せて自分を曲げて諂ったりしない心の働きになりますが、この三の善根は、無貪と無癡の一分であるから、十一の善の心所の中には説かれない、分位仮立法になります。
「随応」の説明がされていますが、『述記』には詳しくは出ていません。『演秘』に詳細が記されています、後述します。等とは、他を含めるという意味になりますが、無貪・無癡の一分である他の善の心所に、憍(キョウ・おごり、たかぶること)・詐(サ・詐欺だますこと)を翻じた不憍・不詐を含めるということなのです。これは『瑜伽論』巻第六十二・八十九に説かれているものです。
「論。不覆誑諂等者。即瑜伽論六十二中・及八十九憍許亦是入所翻中。六十二云。云何爲憍。謂於増上惑毀犯尸羅由見聞疑他所擧時。遂託餘事假他餘事惑設外言而相誘引。云何爲許。謂怖他故。或復於彼有所希故。雖有犯重而不發露。亦不現行。非實意樂詐於有智同梵行所現行。親愛恭敬耎善身・語二業。八十九云。心懷染汚爲顯己徳假現威儀故名爲憍。心懷染汚爲顯己徳。或現親事或行耎語故名爲詐 問二文何別 答初約覆罪。後爲顯徳。故二文別。」(『演秘』第五本・二十七右。大正43・915c)
「論に不覆誑諂等とは、即ち瑜伽論の六十二の中、及び八十九に憍詐をも亦た是れ所翻の中に入る。六十二に云く、云何をか憍と為る。謂ゆる増上戒に於て尸羅(シラ・戒のこと)を毀犯(キホン・戒をやぶること)し、見聞疑に由りて他に挙せらるる時に遂に余事を許して他の余事を仮り、或は外の言を設けて相い誘引す。如何が詐と為る。謂く、他を怖るるが故に、或は復た彼に於て希う所有るが故に、重を犯すこと有りと雖も而も発露せず、亦た現行せず、実の意楽(イギョウ・欲、意欲)に非ずして詐って有智の同梵行(ドウボンギョウ・ともに清らかな修行をしていること)の所に於て親愛と恭敬と耎善(ネンゼン・やさしいこと)の身と語との二業を現行すと云えり。八十九に、心に染汚を懐き、己が徳を顕わさんが為に仮りに威儀を現ずるが故に、名づけて憍と為す。心に染汚を懐き、己が徳を顕わさんが為に或は親事を現し、或は耎語(軟語)を行ずるが故に名づけて詐と為すと云えり。
問う、二文何ぞ別なる。
答う、初は罪を覆うに約し、後は徳を顕わさんが為の故に二の文別なり。」
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