唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(16) 六理証 その(Ⅶ)

2012-03-20 21:47:10 | 心の構造について

                    無明長夜の燈炬なり
               智眼くらしとかなしむな
               生死大海の船筏なり
               罪障おもしとなげかざれ (『正像末和讃』 真聖p503)

  「誠智 無明長夜之大燈炬也 何悲智眼闇」というは、誠知は、まことにしりぬという。弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり。なんぞ智慧のまなこくらしとかなしまんや、とおもえとなり。「生死大海之大船筏也 豈煩業障重」というは、弥陀の願力は生死大海のおおきなるふね、いかだなり。極悪深重のみなりとなげくべからずとのたまえるなり。」 (『尊号真像銘文』 真聖p530)

            ―      ・      ―

 次に、小乗の説は比量に相違することを述べる。

 「倶に異生の位なるを以て、迷理の無明行ずるときと、行ぜざるときと有りと云はば、理に応ぜざるが故に。」(『論』第五・十右)

 (倶に異生の位であるにもかかわらず、迷理の恒行不共無明が働く時と働かない時があるということは、理に応じないからである。)

 異生は不共無明と倶である。にもかかわらず、倶でない時があるということは理に背くことになり、論理矛盾を犯すと、小乗の説を前提として述べられています。説明としては、因明の立量を以て示しています。先に『述記』本文を記します。

 「論。倶異生位至不應理故 述曰。此違比量 量云。汝言異生起善・無記位無無明時。無明應亦起。異生位故。如餘起時。」(大正43・410a)

 「述して曰く。此れは比量に違しぬ。量に云く、汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時にも、無明はまさに亦起こるべし。異生の位なるが故に。余の起こる時の如し。」(『述記』第五末・十八右)

  • (宗) 汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時にも、無明はまさに亦起こるべし。
  • (因) 異生の位なるが故に。
  • (同喩) 余の起こる時の如し。

 末那識の存在を認めなければ、比量相違の過失になると批判しています。理由は、小乗では、善・無記の状態では、無明は起こらないとするが、異生である限り無明と倶である、倶であるから異生という、と。異生は恒行不共無明を持っていると推量される。その推量が正しいならば、小乗の主張は比量相違の過失が有るといわなければならないのです。

 『述記』の量について、『唯識論聞書』(大正66・738c)に説明がされています。

 「 一。倶異生位迷理無明等文ノ事 讀師云。疏量ノ宗法ヲ見レハ。無キ無明時可ト起云云 成ンヌ自語相違ニ。難シ思 光胤申云。只善無記位ニ無明可ト起立テヨカシ 讀師云。サヤウニ立テハ。可有違宗ノ過。大乘ノ心善無心ニハ無キカ無明故。此量ハ他比量也。疏ニ汝ノ言ヲ置ク。若爾不可有自語相違之過

 『述記』の説明には、最初に「汝」の言を置いているので、「自語相違の過有るべからず」と、「汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時」が小乗の主張になり、「無明はまさに亦起こるべし。」が大乗の主張になるという。

   

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(15) 六理証 その(Ⅵ)

2012-03-19 22:55:29 | 心の構造について

 横道にそれますが、「無明」について『法相二巻抄』巻下に学んでみます。良遍は、

 「 而ドモ。我心ヲツカウ事不能。無明ノ迷ハ闇ノ如クニ暗ク。薩伽耶見ノ執ハ石ノ如クニ堅ケレバ。觀ズト云ヘドモ明ナラズ、久シカラズ。譬バ深キ闇ノ風ハゲシキニ。幽ナル燈ヲ以テ行ガ如シ。須臾ニシテ滅シ。闇昧ニシテ拙シ。何ニ況ヤ眼ヲ佛教ニヘダテ。生ヲ邊界ニ受ル輩ヲヤ。何ニ況ヤ地獄・鬼・畜ノ衆生ヲヤ。此故ニ無上大覺ノ種子。徒ニシヅミ埋レテ。現行ヲ生ズル事アタハズ。栴檀ノ種ノ土ノ中ニアリテ。サマザマノ草ノ穢シキ物ニ埋レテ。未ダ生出セザランガ如シ。」(大正71・118a)

 と述べています。現代語訳は『唯識とは何か』(横山紘一著・春秋社刊、p359~p360)を引用します。 (「しかしながら、自己の心でありながら自己の心を支配することができず、無明の迷いは闇のごとくに昧く、薩伽耶見による執着は石の如くに堅固であるから、(真理を)観ようとしても明らかに、しかも長く観ることができない。それはちょうど、深い暗闇のしかも風の烈しいなかを、かすかにともったたいまつを持って歩いて行くようなものである。たちまちに(たいまつの灯は)消えて、まっ暗やみとなり、どうしていいかわからなくなる。(仏教にふれている人でもそうであるのに)ましてや仏教に会う縁がなくて、辺境の地に生まれるひとびとはなおさらである。また、ましてや地獄・餓鬼・畜生のひとびともなおさらである。このゆえに無上大覚を生ずる種子は、いたずらに(阿頼耶識のなかに)沈み埋もれて、現行して生ずることができない。(香りある)栴檀の種子が土の中で、さまざまの草の臭い穢物に埋もれて、いまだ芽をふいていないようなものである。」)

 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)と説かれる『論』の主張に呼応するように良遍は私たちに語りかけてきます。『論』はつづけて「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、惛酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)と、その問いかけに答えていますが、良遍もまた、無上正覚を生ずる種子をもちながら、その種子が現行しないのか、という問に答えているのです。巧みな喩を引いて、我癡・我見という末那識相応の煩悩がその原因であると述べています。末那識は「四の煩悩と恒に倶なり」といわれているのですが、厳密には根本煩悩は無明である我癡と、我癡から生ずる我見(薩伽耶見)によって生死に流転し、菩提を得ることができない、と語りかけているのです。

 「下は正しく難を申す。小乗等の説かく」と。後は小乗への批判を行う。初は(小乗の説が)経に違することを述べる。

 「若し異生の位に暫くも此の無明を起さざる時有らば、便ち経の義に違しぬ。」(『論』第五・九左)

 (もし、異生の位に、しばらくでも、この無明を起こさない時があるならば、それはすなわち経典の内容に相違する。)

 経典の内容に相違するということは、異生の位には恒行不共無明が起こることを意味しているのです。この無明を起こさない時はないということを示唆しています。

 「論。若異生位至便違經義 述曰。下正申難。小乘等説經言恒者謂多分説。實理亦有不起時故。今以違教爲彼宗過」(大正43・410a)

 「述して曰く、下は正しく難を申す。小乗等の説かく、経に恒と言うは、謂く多分の説なり。実には理を以ては亦起こさざる時有りるが故に。今教に違するを以て彼の宗の過と為す。」(『述記』第五末・十七左)

 経に「恒」というのは多分によって言われるのであると。これは小乗の反論を想定して述べられているのです。小乗では恒というのは多分で解釈されているのである、と。多分とは長時という意味になります。時間的に長いので恒というのだというわけです。この場合には間断のないという意味ではありません。長時という意味ですから、間断する時もあるということを含意しています。そうであるならば、恒ということを以て長時を説明するときには、長時でない時には、異生は無漏智を起こしていることになり、経典の記述と相違することになる、と破斥しているのです。経典には「異生の類は、恒に長い夜に身をとどめ、智慧の眼は恒行不共無明のために閉ざされ、惛酔して恒行不共無明に心を纏われ、曾って醒覚することな無い」と述べられている内容に相違する、と述べられています。 

 

 


「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (4)

2012-03-18 19:47:55 | 『感の教学』 安田理深述

 「さて道元禅師の眼横鼻直は、あるものがあるものの如くある。ありのままを表されたものかと思う。今日の学問で問題としている存在である限りの存在そのもの、というものでありましょう。仏教の学問で法・法性といわれてきたものが、全く直簡明な眼横鼻直という個有の表現となっているように思います。眼横鼻直は法性真如の事実である。存在自らで自らを悟っている自覚は理知の分別に欺されない。此方から把握したのでなく、ものがもの自らで語っているのである。これは眼横鼻直だなと判断したのではない。分別によって定立したものはまた分別によって倒されるものである。他に瞞(まん)せれらぬというが、他といっても自己の内にある理知分別である。あれこれの分別に動かされぬのである。他の人にだまされんのでない。自己の分別にもだまされない。自分の分別にも動かされない。自分の主観を破った存在そのものの確実さがそこにある。曹洞禅は道元禅師に始まって道元禅師に終った。第二の道元禅師は出ないといった純粋なものがそこに生々と表れていて、我々を圧倒するような表現の力が感ぜられる。我々は同一のものを親鸞に於て、また清沢先生に於て、曽我先生に於て感ずるのである。単に類似しているというのではない、全く同一のものが動いている。存在は類概念ではないのである。真如は誰にあっても一如である。存在そのものが各自各自に於て自らを開示しているからである。ものがちがうと私はいうのである。

 先生は二人ある訳でない。比較してよりよい勝れておるというのでない。唯一無比、比較して我師を自慢しておるのでない。そこに純粋無雑の存在がある。福音書の言葉では 「このひとをみよ」 という。存在の真理が直ちに人となっているからである。彼は学者の如く語らなかった。彼は権威あるものの如く語ったという。存在の権威をもって存在を語っているのである。これがほんもんということである。ものがちがうのである。これは何故かというと我よりも我に近く我を内に超えた、存在の深みに源泉をもっているからである。正法眼蔵に有時というのがある。有時はある時であるが、併し禅師はそれを 「有は時なり」 という独自の読み方を示していられる。有時は眼蔵の中では最も哲学的な思想が語られている巻である。ある時ではなくして、あるは時である。存在は時間という形式の内に於てあるものではなくして、時間そのものが存在であり、存在は時間そのものであるというのです。ある時に対して、有は時であるという時は、その時その時の時をして時たらしめる根元時であるといえるのではないか。禅師の而今とは正に根元時である。存在は今の外にない、過去とか未来とかの時間経過は今に於てあるのである。今はいつまでも現在、現在に於て過去を立て未来を立てる、かかる而今が存在そのものである時である。眼蔵にはまた一切衆生悉有仏性について、一応は一切衆生に悉く仏性がある、一切衆生は悉く仏性を有つという一般的な読み方でなしに、 「悉有は仏性なり」 という独自な読み方が出ている。仏性は教行信証でも触れられていて、特に信の巻には信心仏性という、涅槃経の経文が注意されている。新人といっても単なる心理的体験といったものではなく、体験の主観性を破った仏性そのもの、信心即仏性といったものである。如来廻向の信心は衆生の体験として衆生に所有されることなく、信心即ち仏性として如来にかえるのである。 (つづく)

 以下

 ― 「自分さがしの仏教入門」 より引用させていただきました。 ―

「曹洞宗の本山である永平寺を開かれた道元禅師もまた、 人間とは何か、人生とは、どこから来てどこに在ってどこに向かっていくのかを 生涯をかけてお示し下さったお方であります。 禅師は24才のときに中国に留学され、如浄禅師に学ばれて一大事を悟ったといわれています。 そして28才で帰国されたとき仰有ったお言葉が
    「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)です。
 経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ一つ
    「目は横に、鼻は縦についていることがわかって、空手で帰ってきた」
 目は横に、鼻は縦についている 「あたりまえのこと」じゃないかとわたしたちは思います。 道元禅師のようなお方が命がけで宋にまで渡り4年もの間、法を求め修行をされて、わかったことが、眼横鼻直ただひとつだと・・・ それほど「あたりまえのこと」の有り難さを分からないのが私たちではないかとお示し下さったのがこの言葉です。
 源左さんという念仏者が「急な雨が降っても鼻を下に向けてつけておいてもらったいるので有り難い」と仰有ったという話を聞いても、同じように有り難いと思える方がどれほどおられるでしょうか?
 米沢先生が心臓の鼓動や呼吸の話をされて 「生かされて生きているのだ」と耳にタコができるほど繰り返されましたが、 私は、頭ではそのとおりだ・・と分かっても、心底有り難いなどとは思えませんでした。 そして信仰をもっている人は「あたりまえのことの有り難さ」がわかるのにちがいないと思ったものです。 それで、有り難く思おう、思わなければ、と努力しましたが、 やっぱり「あたりまえのこと」は「あたりまえのこと」でした。
そんな私にも、ひとつだけ気付かされたことがありました。 この「あたりまえのこと」だけは、私が何と思おうと、 どう考えようが決して動くことがないということです。 私が有り難がろうが、なかろうが、決して動きません。 そして、もし他の人が、それを「違う、鼻は横だ」といっても、私は疑うこともありません。 「そのとおりだ」と認めてくれた人がいるからといって喜ぶこともありません。 私の思いに関係なく「ありのまま そのままの事実」です。 それと同様に、その「ありのまま そのままの事実」を有り難いとも、不思議だとも思えない自分が「今ここにいる」というのも「ありのまま そのままの事実」です。
「ありのまま そのままの事実」に落ち着けたとき・・・ あたりまえのことの有り難さ」がわからないままに生かされていることの不思議さに気付かせしめられました。 その時初めて「眼横鼻直」のお言葉が心に落ちたようなような気がします。 それを教えて下さったのが安田先生の下のお言葉でした。 思いを超えた「ありのまま そのままの事実」に生かされて生きている私たちではないでしょうか?」
            ―         ・       ―
 
  •  「有時」 - 『正法眼蔵』有時の巻より。 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。…われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりとしょ見すべし。・・このゆえに同時発心あり、同心発時あり、および、修行成道も、かくのごとし。・・有時みな尽時なり。有草有象ともに時なり。時時の時に尽有尽界あるなり。・・いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。」
  • 「悉有仏性」 - 『正法眼蔵』仏性の巻より。 「悉有の言は、衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。 正当恁麼時(正にそのような時)は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(14) 六理証 その(Ⅴ)

2012-03-17 21:35:30 | 心の構造について

 その理由を明らかにする。

 「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、惛酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)

  • 醒覚(せいかく) - 迷いからさめること。
  • 惛酔(こんすい) - ねむく心が沈んでいる様子をいう。

 (このために経典に説かれる。「異生の類は、恒に長い夜に身を処して、真実を明らかにする眼(慧眼)は恒行不共無明によって閉ざされ、惛酔して心をまとわれ、曾って迷いから醒めることは無かったという。)

 この理由によって末那識の存在が証明されるということを表しています。不共無明は「行相微細にして知り難し」(微細常行行相難知覆無我理蔽無漏智)といわれていますように、恒時に行じて無我の理を覆い、無漏の智を蔽っているわけです。またこの不共無明は心所有法ですから、心王がなければないません。恒時というところから、前六識には間断があり、第八識は無覆無記であって、煩悩と相応するものではありませんから、いずれも不共無明と相応するものではないのですね。よって恒時に相応する第七識の存在が証明されるというのです。

 「論。是故契經至曾無醒覺 述曰。説異生類恒處長夜。夜是闇故。無明恒有説爲長夜。若生死中無無明者便中明故 無明所盲者。謂此不共恒現行故盲其惠眼。不爾中途有無無明時即非無明盲 惛昧醉亂恒自纒心曾無醒覺。惛即無覺。醉即無醒。若中途有無無明時便有醒覺。以此經證無明恒行遍三性位 不爾恒行」(大正43・410a)

 「述して曰く、説かく、「異生の類、恒に長夜に処す」とは、夜は是れ闇なるが故に。無明は恒に有るを以て説いて長夜と為す。若し生死の中に無明無くば、便ち中に明なるべきが故に。「無明所盲」とは、謂くこれの不共恒に現行するが故に、其の慧眼を盲す。爾らずば、中途に無明無き時有って、即ち無明に盲いらるるに非ず。惛昧し酔乱して恒に自ら心を纏はして曾って醒覚すること無し。「惛」と云うは、即ち覚すること無く、「酔」と云うは、即ち醒すること無きを以て。若し中途に無明無き時有らば、便ち醒覚すること有るべし。此の経を以て無明恒行して三性の位に遍ぜりと証す。爾も恒行ならざらんや。」(『述記』第五末・十七右)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(13) 六理証 その(Ⅳ)

2012-03-16 22:31:11 | 心の構造について

 経と論を引用して恒行を証明する。初に無着の『摂大乗論』巻第一を挙げる。

 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)

 (伽陀に説かれる通りである。「真義の心のみ、まさに生ずべきを、常に能く障礙して、一切の分に倶行する。つまり、不共無明である。)

 「頌曰 若不共無明 及與五同法 訓詞二定別 無皆成過失 無想生應無 我執轉成過 我執恒隨逐 一切種無有 離染意無有 二三成相違 無此一切處 我執不應有 眞義心當生 常能爲障礙 倶行一切分 謂不共無明此意染汚故。有覆無記性。與四煩惱常共相應」(『摂大乗論』本・巻上、大正31・133c~134a)

「若し不共無明と 及び五同法と 訓詞と二定の別と 無ければ皆過失を成ず、 無想の生は応に 我執の転ずること無ければ過を成ずべし 我執は恒に随逐して 一切種に有ること無からん、 染の意を離れては 二有ること無く、三は相違を成ず、此れ無ければ一切処に 我執は応に有るべからず、真義の心の当に生ずべきに 常に能く障碍となり 一切分に倶行するを 不共無明と謂う。

 此の意は染汚の故に、有覆無記なり。四煩悩と常に共に相応す。色無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色無色の纏は奢摩他の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故に。」

  •  訓詞(くんし) - 言葉の語源や意味を解釈すること。 

 『無性摂論』では大正31・384aに釈が述べられています。

 (「なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか。もし、この心がないとすれば、独立して働く無明が存在すると言えなくなるからである。・・・これについて詩句を説く。独立して働く無明がないことになり、同質の五識がないことになり、二つの禅定の区別がないことになり、意という言葉の意味がなくなり、たんなる無想情態の生命に我執がないことになり、その一生に煩悩の流失がないことになり、その善悪無記の中には、我執は起こらないことになる。しかし、汚染された心なしには涅槃も無い。汚染とそれから離れるということや、存在認識の三性質の事実に反する。それがなければ、一切のところに我執は発生することはできない。真理を覚ろうとするに際して、障害となって発生させない。つねに一切のところで働いているもの、これを独立して働く無明と名ける。この心は汚染されているので、有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。』コスモスライブラリー『摂大乗論』現代語訳より。)

 真義 - 真実義のこと。究極的な真実・真理(真如)をいう。真実義については『瑜伽論』巻第36(大正30・486b)に四種の真実義が説かれ、巻第64(大正30・653c)に六種の真実義が説かれる。『述記』には無漏の真智である、と説かれています。

 真義の心というのは、真如を縁じる心なのです。この真義の心は、無始よりこのかた有情に具備されているといわれています。しかし、末那識相応の恒行不共無明もまた無始よりこのかた間断することなく、恒に現行し、真義の心を障礙して、真義の心を現行させないのです。「倶行一切分」です。「此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。」と。三性すべてにですね。善も悪も無記の行に於て、この無明は起こるのです。すべての経験においてですね、この無明が相応して働いていると教えています。善を為して誇り、悪を為して嘆くのは、この無明が相応しているからなのです。この理由が次の科段において述べられます。 

 「論。如伽他説至謂不共無明 述曰。眞義之心。無漏眞智。攝論無著本第一説。此無明通三性心恒與倶起。如次前説」(大正43・409c)

 「述して曰く、真義の心と云は、無漏の真智なり。摂論の無着の本の第一説なり。此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。次前に説けるが如し。」(『述記』第五末・十七右) 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(12) 六理証 その(Ⅲ)

2012-03-15 22:23:35 | 心の構造について

 真実ということなのですが、『正信偈』に「無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と、親鸞聖人は語られています。「無明の闇を破す」ということについては、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『総序』)と。無明の闇はすでにして破られている、「しかし」、貪愛・瞋憎の雲霧が真実信心の天を覆っていると、我が身の現実を見据えられておられますね。真実とは、『唯識』では無我の理と無漏の智慧のことであると教えられています。諸法実相です。『唯識』では円成実性といいます。「覆眞實相顯虚妄相」と、覆っているものですから、現実は虚妄の相を現しているのです。『歎異抄』では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られています。念仏は真実功徳相ですね。真実功徳相によって明らかにされた世界が、火宅無常の世界であり、我が身は煩悩具足の凡夫であることが一点の疑いもなくはっきりとしたということですね。闇は破られていることに於て雲であり、霧であることが見えたということです。見えてみれば、雲、霧は邪魔にならないというですね。無明の闇が破られて、「微細に、恒に行じ、真実を覆蔽」している末那識の存在が白日の下に晒されるのです。恒行不共無明が本性である、と。 次に進みます。

 理より説明する。

 「謂く、諸の異生は、一切の分に於て、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼を障う。」(『論』第五・九左)

 (つまり、諸の異生は、一切の分(善・悪・無記のすべて)において、恒に迷理の不共無明を起こして、真実の義を覆い、聖の慧眼を障碍するのである。)

 第一は小乗を論破して末那識が存在することを明らかにし、第二に不共の義を説明する。第一の中が二つ分かれる。初は経典の意義を述べ、後に小乗への批判を行う。この科段は『縁起経』の文を説明しています。

 諸の異生と述べて、聖者を除いています。理由は聖者は無漏智が現行する時、恒行不共無明が存在しなくなるからです。(煩悩具足の凡夫は)一切の分に於て、善も悪も無記の行為であっても、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼である無漏智を障碍しているのである、と。

 「論。謂諸異生至障聖惠眼 述曰。下釋有二。初破小乘立有第七。後釋不共之義 初中有二。初釋經義。後正難之。此除聖者。聖者無漏道現行時彼不有故。如下當知 一切分。通三性心 恒起。釋經恒行之字迷理不共無明。迷無我理故 覆眞實義者。能覆眞如釋覆義。義如前説 障聖惠眼者。遮無漏智。釋蔽義」(大正43・409c)

 「述して曰く、下は釈するに二有り。初は小乗を破して第七有りと立つ。後は不共の義を釈す。初の中に二有り。初は経の義を釈す。後は正しく之を難ず。此れ聖者を除くなり。聖者は無漏道の現行する時に彼れ有ならざるが故に。下の如し、当に知るべし。一切分とは三性心に通ず。恒に起こしてと云はば経の恒行の字を釈す。迷理の不共無明とは、無我の理に迷うが故なり。覆真実義と云うは、能く真如を覆うを以て覆の義を釈す。義とは前に説くが如し。障聖慧眼と云うは、無漏智を遮す。蔽の義を釈するなり。」(『述記』第五末・十六左)

 「真実を覆蔽す」の説明として、「覆」とは無我の理に迷うこと、即ち真如を覆うことをいい、「蔽」とは無漏の智を障碍することであると説明されています。理を覆い、智を蔽すことが恒行不共無明で有ると述べられているのです。

 次に、重ねて証拠の文(『摂大乗論』)を引用し、論証する。 (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(11) 六理証 その(Ⅱ)

2012-03-14 23:16:32 | 心の構造について

 第一理証 (不共無明から末那識の存在を証明する)

 「謂く、契経に説けり。不共無明は微細に恒に行じ、真実を覆蔽すという。若し此の識無くんば、彼有るに非ざるべし。」(『論』第五・九左)

 (つまり、契経(『分別縁起初勝法門経』・『分別縁起経』という。巻下)に説かれている。「不共無明は微細であって、恒に活動し、真実を覆蔽する」(取意)と。もし、この末那識が存在しなかったならば、彼(不共無明)も存在しないであろう。)

  「況彼所有不共無明。遍於一切可愛非愛。倶非境界。覆眞實相顯虚妄相。」(『分別縁起初勝法門経』 玄奘訳 大正16・842a)

 不共無明(ふぐうむみょう) - 二種の無明(相応無明・不共無明)の一つ。独行無明ともいう。貪・瞋などの煩悩と相応して共に働くことなく、ただ四諦の真理を知らない暗い心のありようをいう。これがさらに二つに分けられる。恒行不共無明と独行不共無明である。恒行不共無明は末那識と相応して働く無明をいう。恒行とは、無始よりこのかた、恒に働きつづけているから恒行という。独行不共無明は意識と相応して働く無明をいう。貪・瞋などの煩悩と相応せず、ただ独り働く無明をいう。 相応無明は、前六識における貪・瞋などの煩悩と相応して起こる無明である。

 第一理証で述べられている無明は、恒行不共無明です。恒行不共無明の依り所は第七末な識なのです。第六意識は間断することが有り、恒行ではなく、第八阿頼耶識は煩悩と相応しないという論証から、もし末那識が存在しないならば、恒行不共無明もまた存在しないことになる。しかし恒行不共無明が存在する限り、末那識は存在すると論証しています。「真実」に二つの意味が施されています。無我の理と無漏の智慧です。無我の理と無漏の智慧を覆い隠し、それがまた虚妄を顕すことになるというのです。

  論。謂契經説至彼應非有 述曰。此第七識六證頌云。不共六二縁。意名二定別。無想許有染。有情我不成 自下第二正辨難中有六義證。此初證中文有其二。初引經證。後理徴釋 如縁起經有四無明。一現。二種。三相應。四不相應。或有爲二。共・不共等。此中難不共者。謂此3微細常行行相難知。覆無我理蔽無漏智名覆蔽眞實。眞實有二。一無我理。二無漏見。義有二義。一謂境義。見分境故。二謂義理。眞如即理故。然不共無明4大小乘經皆共依信。此上經文。若無此識彼應非有。是論師説 何名不共」(大正43・409c)

 「述して曰く、此の第七識の六証の頌にいうく。(1)不共と(2)六の二縁と(3)意名と(4)二定の別(5)と無想に染有りと許すと、(6)有情の我成ぜざるなり、と。自下は第二に正しく難を弁ずるが中に六の義証有り。此の初の証の中に、文に其の二あり。初に経を引いて証し、後には理を以て徴釈す。『縁起経』の如きには、四の無明有り。一に現、二には種、三には相応、四には不相応なりと云う。或は二と為せり。共と不共との等なり。此れが中に不共を難ずれば、謂く此れが微細にして常に行じて行相は知り難し。無我の理を覆い、無漏の智を蔽うを、真実を覆蔽すと名く。真実に二あり。一に無我の理。二に無漏の見なり。義に二義有り。一に謂く境の義、見分の境なるが故に。二に謂く、義理。真如即理なるが故に。然るに不共無明は大小乗経に皆共に依り信ず。此れより上は経文なり。若し此の識無くんば彼応に有るに非ざるべし、とは、是れ論師の説なり。何れが不共と名ける。」(『述記』第五末・十六右) 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(10) 六理証 その(Ⅰ)

2012-03-13 21:42:13 | 心の構造について

 六理証

  • (第一理証) 不共無明証(独行無明)
  • (第二理証) 六二縁証
  • (第三理証) 意名証
  • (第四理証) 二定差別証
  • (第五理証) 無想有染証
  • (第六理証) 我不成証

 「論。如是等教至故不繁述 述曰。指略説也」理中有三。初結前生後次依標正釋後總結」(大正43・409c) 

 「理の中に三有り。初に前を結して後を生ず。次には標するに依って正しく釈す。後には総じて結す。」(『述記』第五末・十五左)

 (理を以て末那識の存在を証明する。これが大きく三つに分けれて説明される。初めに、前の論説を結んで後の論述をはじめる。次には六理証の一つ一つのテーマに沿って解釈される。そひて六理証をまとめて結ぶのである。)

 「已に聖教を引きつ、当に正理を顕すべし。」(『論』第五・九右)

 (すでに聖教を引いて論証してきた。今まさに正理を顕すのである。)

  論。已引聖教當顯正理 述曰。此結前顯教生後隱教諍理取之」(大正43・409c)

 「述して曰く、此れは前の顕なる教を結んで、後の隠なる教を生じて、理を争って之を取る。」(『述記』第五末・十五左)

 「已引聖教」が前半の二教証を指し、顕なる経を結ぶ部分、後の当顕正理」が六理証を指す。「隠なる経」について正理をあらわす部分になります。六理証は『摂大乗論』によって立てられています。

 次に六理証の一つ一つのテーマに沿って解説されます(依標正釈)。第一理証は不共無明証について述べられます。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(9) 二教証 (Ⅷ) 第二の教証

2012-03-12 23:08:27 | 心の構造について

 後半は、『解脱経』の中の『頌』である第四句を解釈する一段です。

 「爾の時には、此の意と相応する煩悩は、唯だ現のみに無きには非ず。亦た過未にも無し。過去未来は自性無きが故に。」(『論』第五・九左)

 (その時には、この意と相応する煩悩は、ただ現在のみに無くなるのではなく、亦た過去にも未来にも無くなるのである。なぜなら、過去と未来には自性が無いからである。)

 第四句は「曾にも非ず当有にも非ず」を指し、「諸惑を解脱しぬるときには」をうけて、「曾にも非ず当有にも非ず」と。諸惑を断じる時には、煩悩の種子も断じ尽くされ、煩悩は倶起しないと云われています。従って、この第七末那識と相応する煩悩は現在のみに無くなるのではなく、過去及び未来にも煩悩は無いというのですね。その故は過去にも未来にも体は無いからである、と。「現在有体過未無体」という立場です。有部は「三世実有法体恒有」という立場をとっています。しかしこの大小乗共許の経典に 「非現無亦無過未 過去未来無自性」 と述べられている一文が大乗の立場を承認していることを以て、この論証が正しいことを述べています。

 「論。爾時此意至無自性故 述曰。釋第四句。住無學位。此意相應諸煩惱等。非唯現無。亦無過・未。現在理無。不倶起故。種已斷故。然薩婆多等計。惑雖斷於過・未世仍有體在。去來世有故。今擧共許則云非唯現無。偏破彼宗故。云亦無過・未。過未・無體故。頌中唯言去・來無。不言現在無。爲極成故 此經大小共信。十八部共許諸部解別 上座部等計。即染第六識惑許並生。別有細心是第六意恒現行故。如受生心等大衆・經部等解。如常施食受樂。非謂一切時有名恒 薩婆多等非四惑同時倶。此即前後有倶。常施食等 今大乘云即是我第七識。此中至教諸論所無」(大正43・409b)

 「述していわく、第四句を釈するに、無学の位に住する時には、此の意と相応する諸の煩悩は、唯現のみに無きには非ず。亦た過未にも無し。現在には理無し、倶起せざるが故に、種を已に断ぜるが故に。然も薩婆多等の計すらく(『倶舎論』第二十一巻)、枠は断ずと雖も、過未来世に於て仍(惑の)体在ること有り。去来世有るが故に。今は共許せるを挙げて、則ち唯現のみに無きには非ずと。偏に彼の宗を破するが故に。亦は過未にも無しと、過未は体無きが故にと云う。頌の中には唯去来に無とのみ言う、現在は無しと言はざることは極成せんが為なり。故に此の経をば大・小共に信ず。(小乗の)十八部共に許せども、諸部の解すること別なり。上座部等の計すらく、即ち染の第六なり。諸惑と並生すと許す、別に細の心有り。是れ第六の意なりと、恒に現行するが故に。受生心等の如しと云う。大衆・経部等の解すらく、常に食を施し楽を受くと云うが如し、一切の時に有るを恒と名くと謂うには非ず。薩婆多等は四惑同時に倶なるに非ず。此れ即ち前後にして倶なること有りといわんとぞ。常に食を施す等という。今、大乗の云く、即ち是れは我が第七識なり。此の中の至教は諸論に無き所なり。」(『述記』第五末・十五右)

  瑜伽第十六引經云。染汚意恒時諸惑倶生滅。若解脱諸惑。非先亦非後。彼自釋云。非先者與諸煩惱恒倶生故。非後者即與彼惑倶時滅故」(『成唯識論掌中樞要』巻下・二十五右、大正43・640a)

 「瑜伽第十六に経を引きて云く。染汚の意は恒時に諸惑に倶に生滅す。若し諸惑を解脱せば、先にも非ず亦た後にも非ずと云へり。彼に自釈して云く。先に非ずとは、諸煩悩と恒に倶生するが故に。後にも非ずとは、即ち彼の惑と倶時に滅するが故にと云へり。」

 『瑜伽論』巻第十六に「染汚の意恒時にして、諸惑倶に生滅す、若し諸惑を解脱すれば、先に非ず亦後に非ず。」と。

 第七末那識は四惑と同生同滅することを説いているのです。

略説

 「是の如き等の教えは諸部に皆有り、広文を厭わんかと恐れて、故に繁に述せず。」(『論』第五・九右)

 (このような教えは諸部にみな説かれている。広く説くことは煩雑になることを恐れて、細かくは述べない。)

 


「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (3)

2012-03-11 22:04:41 | 『感の教学』 安田理深述

 「道元禅師であるけれども宋から帰られて、自分は禅宗といったセクト的なものを伝えるのでない、仏法そのものをそのまま伝えるのである。しかし仏法といっても固定した仏法というものがあるわけではない。正法そのものは対象的な何かとして固定化されたものではに。従ってそのままにといえば、伝えるということすら言い得ぬものであろう。先にいったように曽我教学は特殊なものではない。仏法そのものしかもそのままにというところに出ている。言葉を離れた存在がそのまま言葉となって出ている。道元禅師は宋から帰朝されて、始め京都の南の方の深草に脚を留められたのであるが、自分が宋の天童如浄先師との邂逅によって当下に認得したものは、それはどういうものかというと他事はない、眼は横にあり鼻は縦にある「ということがわかった。直載簡明、裏も表もない眼横鼻直、これだけは人がいかにそれは嘘だとか否定したからといってそれによって動かされず、また人がそれを肯定したからといってそれによって喜ばず、すべて人間の意見によって上下されない、これはだれかれの思いというものではない、あるがままの存在の事実である。これは道元禅師でないが有名な盤珪という禅匠、あちこち禅宗の和尚は、徒らに支那の禅者の言葉でないと禅は語られんと思うている、どうか教えてもらいたいというと、座禅してみよといって逃げる。そんな外国人の言葉は不要である。問うことも答えることも日常語で充分に仏法の用は達せられる。盤珪禅師は自分の仏法を不生禅という言葉で表現せられる。

 その一例として、皆さんは今日私の話を聞きに来られた、ところで来てみるとゆくりなくも雀の鳴いている声が聞えた。雀の声を聞こうと思って来たのではなく仏法を聞こうとして来たのだが、その内はからずも雀の声が聞こえた。それを犬の声だと誰がいっても、それだけは人に欺されん。眼は見るし鼻は嗅ぐこれは根本無分別智というもの、誰にも本来回向されている根本能力、眼で音を聞くことはない、眼でものをみておるという当たり前のこと、それが不思議、教理が不思議だというのでない、現に与えられている存在の事実が不思議だ、不思議を対象的に向こうにおいたならば不思議にならぬ。向こうにおけば不思議を思議したことになる。不思議は何所迄も此方になければならん。これはこれはということでなければならね。自分で自分にうなづくということでなければならぬ。向こうにおいたならば不思議という思いに他ならぬ。不思議とは主観の表象を突破して存在の事実そのものにふれて事実的自己となったことである。存在が自己の思いを破って自己となったのであって、自己の思いにいよって存在をとらえたのではないのである。仏法の事実というもの、自己でも世界でも、仏法の自己、仏法の世界を一語にいえば不可思議です。不生といっても考えて音を聞くのでない、考えるに先立つ不生のところで、そこを一歩も動かずしてものをみておる、そういうことは何かの努力の結果到達するのでなく、実はそれが根本なのである。この本を忘れて人間が自分自ら自分を不純粋にしているのだが、純粋な知性というものがもとよりある。それは必ずしも理性的ということでなく、むしろその逆である。純粋という言葉はそれぞれの立場で使う用語で、純粋理性とか純粋意識とかいう概念も哲学にある。仏教には自性清浄とか、離垢清浄という表現もある、清浄ということを現代的にいえば純粋といい得るであろう。これは理知の分別の雑わらないという意味で、純粋経験というようなのがそれが一番近い。理知の分別以前、或は主観の分別以前、それが純なる事実というもの、これは私よりも私に近い、私があってそういう純粋経験をするのでない。私をまたずして純粋経験それ自身に自覚的統一をもっている。即ちそれによって私が成り立つのである。禅で父母出生以前の我という、我よりもわれに近いそういうものを原始の自己という、曾っての時代によく読まれた原人論という華厳の書がありましたが、人間の根源ということを原(たず)ねたのである。

 内容は起信論などの思想を出ないもので独自的な思想はないようですが、原人論という題目が面白いと今思い出すのです。原始的人間ということは、これは自己本来の面目は何かということでもありましょう。理知的分別以前の自己が原始的人間、法蔵菩薩というのは原始的人間である。現代の人は、病気でないものも現代という病気をしている、健康な人間が病気に患っている。現代に生きるには病気しなければ生きられんが、それを自覚しておらぬ。現代で人間であらんがためには理知的な中途の解決では間に合わぬ。理知は中途というよりも前進の道であるが、今日は進歩よりもむしろが求められるのである。自分はこれからどうしてゆくかというよりも、自分は何によって自分となっているのか、自ら自己の脚下に帰らねば出発が出来ぬのである。その帰るところが途中であってはならんのである、原始の自己に帰らねばならぬ。途中に帰ったのでは帰ったといっても、依然内在的な立場にぐるぐるめぐりをしているのである。

 釈尊に帰れとか、親鸞に帰れというのはやはり途中である、もっともっと根元へ遡らなければならぬ。根源に帰る、過去に帰るのでなく自己の根源に帰らなければならぬ。自己の原始性を恢復しなければならぬ。わが親鸞教学に如来の本願といい因位の願という、それこそ自己の根源、ウルシュプリングというものだと思う。如来の本願は真の意味の自己の根源、われわれは自己の宗教的本能としてそれをもっているのだと思うのです。いろいろいうのも、結局それによって原始となるものを明らかにするにあるのです。われわれが理性をもって無限に限定してみても、というより、逆に存在の向うより自己限定してくるもの、無限に生産的であり湧出的であり、どこまでもウルシュプリングリッヒであるのが原始、そういう原始性を恢復するということが、それが今日の教学の根本課題である。繊弱なものでは現代の病気は救われない。現代の病気は複合ということにあるのである。思考の精密は却って益々病気を増す所以でもあるわけ、先へ進めというのでない。単純なる原始の本に帰る、願というものは未来の原理であり、すべてのものは未来から生産されるが純粋未来の根を願に見出してくる、未来の願を逆にわれわれの過去に見出すのである。願といえば未来の結果を追い求めるようだが、却ってそれを原因に見出してくる。それが動機というものである。往生というような思慕的な立場を転じ、それを内面化して却って現在を生産するような弦を、自己の根底に見出してくるのが願生というものです。浄土は永遠の未来であるとしても、その浄土の根は脚下の現実農地にある。向うにゆけばゆく程、向うのものは逃げてしまう。むしろ永遠に不生なのが純粋未来というものであろう。内観の道は浄土の影を追いかけるのでなく方向転換である。浄土の影ならぬ浄土の根は自己の脚下にある。そこに不生の始まる願生がある。方向転換が道元禅師の所謂回光返照の退歩である。それが現在の教学の方向でなければならぬ。教学といっても観念論的のそれでは線が弱いと思うのです。それでは我々を根底から動かす感動というものにならぬ。観念の根底を破っていない観念は如何に美しくとも腹がふくれないのである。しかし逆に現実主義というものも、現代の宗教とか教学とかいっているものを考えてみれば、宗教までが商業化しておるのではないか。現代という世界に宗教に生きるということはどういうことになるのか大きな問題がある。現代は宗教なんか容れる場所がないのではないか。資本主義の世界では世界はマーケットである。そこでは寺院や境界を訪う時間などは与えられない、目前の現実的要求が一切である。それが一大事、世界は市場でその中で聞法ということを認める会社や国家はない、念仏申すことが出来たといっても学士も博士も与えられない、念仏は掃いて捨てる程あると思っておる。

 こういうことで、そこに願生心、宗教的本能というものは、理性の創造した現代ではそれが脚下に蹂躙されておる。我々は公害を受けたと抗議しておるのだが、最も公害を受けておるのは、宗教的本能たる法蔵菩薩それ自身ではないのか。念仏の教えも二束三文、文化の脚下に蹂躙されておる、よく文化の力によって宗教を現代に生かそうという。しかしそういうことは出来ない。人間の力では生かされなければならぬような宗教は人間を生かすことは出来ない。生かされているのは自分である。自分の蹂躙しているものこそ却って自分を生かしているものではないのか。それが本当の傷ましい現実というものである。人間は理性によって創造したものに眩惑されて、根源を忘却しているのだが忘却こそ最も深い蹂躙である。そういう根源の自覚に帰るというのは容易なことではない。五体投地して驕れる事故に死ななければ自己の根源に帰ることは出来ない。本来の面目といっても、五体投地の懺悔をくぐって初めてそれに帰る。廻心のないところに本来の面目などありはしないのである。   (つづく)

          ―      ・     ―

 語句説明

  • 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)に、「所以に須らく言を尋ね語を迷うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落し、本来の面目を現前せん。」と。(それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外に向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。そのとき、身心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり座禅に務めるがよい。)
  • ウルシュプリング(Ursprung ) -根源