唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(13) 六理証 その(Ⅳ)

2012-03-16 22:31:11 | 心の構造について

 経と論を引用して恒行を証明する。初に無着の『摂大乗論』巻第一を挙げる。

 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)

 (伽陀に説かれる通りである。「真義の心のみ、まさに生ずべきを、常に能く障礙して、一切の分に倶行する。つまり、不共無明である。)

 「頌曰 若不共無明 及與五同法 訓詞二定別 無皆成過失 無想生應無 我執轉成過 我執恒隨逐 一切種無有 離染意無有 二三成相違 無此一切處 我執不應有 眞義心當生 常能爲障礙 倶行一切分 謂不共無明此意染汚故。有覆無記性。與四煩惱常共相應」(『摂大乗論』本・巻上、大正31・133c~134a)

「若し不共無明と 及び五同法と 訓詞と二定の別と 無ければ皆過失を成ず、 無想の生は応に 我執の転ずること無ければ過を成ずべし 我執は恒に随逐して 一切種に有ること無からん、 染の意を離れては 二有ること無く、三は相違を成ず、此れ無ければ一切処に 我執は応に有るべからず、真義の心の当に生ずべきに 常に能く障碍となり 一切分に倶行するを 不共無明と謂う。

 此の意は染汚の故に、有覆無記なり。四煩悩と常に共に相応す。色無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色無色の纏は奢摩他の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故に。」

  •  訓詞(くんし) - 言葉の語源や意味を解釈すること。 

 『無性摂論』では大正31・384aに釈が述べられています。

 (「なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか。もし、この心がないとすれば、独立して働く無明が存在すると言えなくなるからである。・・・これについて詩句を説く。独立して働く無明がないことになり、同質の五識がないことになり、二つの禅定の区別がないことになり、意という言葉の意味がなくなり、たんなる無想情態の生命に我執がないことになり、その一生に煩悩の流失がないことになり、その善悪無記の中には、我執は起こらないことになる。しかし、汚染された心なしには涅槃も無い。汚染とそれから離れるということや、存在認識の三性質の事実に反する。それがなければ、一切のところに我執は発生することはできない。真理を覚ろうとするに際して、障害となって発生させない。つねに一切のところで働いているもの、これを独立して働く無明と名ける。この心は汚染されているので、有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。』コスモスライブラリー『摂大乗論』現代語訳より。)

 真義 - 真実義のこと。究極的な真実・真理(真如)をいう。真実義については『瑜伽論』巻第36(大正30・486b)に四種の真実義が説かれ、巻第64(大正30・653c)に六種の真実義が説かれる。『述記』には無漏の真智である、と説かれています。

 真義の心というのは、真如を縁じる心なのです。この真義の心は、無始よりこのかた有情に具備されているといわれています。しかし、末那識相応の恒行不共無明もまた無始よりこのかた間断することなく、恒に現行し、真義の心を障礙して、真義の心を現行させないのです。「倶行一切分」です。「此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。」と。三性すべてにですね。善も悪も無記の行に於て、この無明は起こるのです。すべての経験においてですね、この無明が相応して働いていると教えています。善を為して誇り、悪を為して嘆くのは、この無明が相応しているからなのです。この理由が次の科段において述べられます。 

 「論。如伽他説至謂不共無明 述曰。眞義之心。無漏眞智。攝論無著本第一説。此無明通三性心恒與倶起。如次前説」(大正43・409c)

 「述して曰く、真義の心と云は、無漏の真智なり。摂論の無着の本の第一説なり。此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。次前に説けるが如し。」(『述記』第五末・十七右)