唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (2)

2012-03-04 12:28:30 | 『感の教学』 安田理深述

 「さて曽我先生のことですが、先生は勿論私の先生にちがいありませんが、しかしそれは私することの出来ぬ人類の教師であると思うのです。曽我教学という何か自分の特殊な教理を主張するという意味での教学ではなく、却って自分をこえてた法の本来的な秩序を判明にするという意味の教学、あくまでも親鸞教学、われわれの存在も存在の意味の自覚も、すべて本願の回向成就として、本願のロゴスたるみ名にたまわるという、その仏法をそのまま何ものも付け加えることなく裸で触れられたのが先生であったと思う。親鸞教学は実は親鸞を超えている。親鸞は裸でそれに触れた。先生もその親鸞を通してこの本来的に超越的な存在に触れられたのである。むしろその何ものも付加することのないということが、尊くすばらしいことであると思うのです。本願という自己を内に超えたものを自分の外に対象化して概念的に捉えるのではなく、逆に本願によって本願の内に自分というものを見出してくる。そしてそれを生命としてそれに生きるという仕方でそれを知るためには、人間は一切の理知の分別から裸にならねばならぬ。裸になって知るのが感覚である。ところで常に先生に近く接しているということは、必ずしも先生を深く知っているということではない訳です。先生の亡くなったことによって一つの距離が与えられた。それを機縁として更めて教えられたことの意義というものを反省してみる。先生の生きておいでになった時は、外感的に近かったことが障碍となって普遍的な意義にふれることが出来なかった。先生の亡くなった現在、今更のようにその解逅によって教えをたまわったことの責任が痛感されてくつのであります。いま漸くそれが理解されたというのではなく、理解していなかったことが理解されてくるのであります。このように何ものも付加することなく裸になる所に、かえって真の思想というものが実は生まれてくるのではないか。真の思想といったものは頭で考えたものではない。われわれが裸になることによって存在が自ら自らを開示してくる。却ってそこに身で受け止めた真の思想というものがある。こちらで考えた特殊な教理というものに思想があるのではなく、自己を空うして存在の言葉を聞くところに、自分でもどうすることも許されない、独自の思想があると思うのであります。普遍的なものは独自性の生命である。こういうわけで親鸞教学の独自のものの存在が、道元禅師の場合を通して、間接的な距離を通して照応的に明らかになるということも出来る。間接的ということは非常に重要な意義があるのではないか。

 願生彼国という言葉がある。これはわれわれを超えた本願の、われわれへの成就を教えられた教主釈尊の教言でありますが、本願の方は極めて直接的に欲生我国、我国に生まれんと欲へ、国という言葉は荘厳浄土の本願を説く無量寿経のことですから繰り返し幾度も出てくるのですが、我国という言葉は十方衆生を呼びかける三願に於てのみ、ただ一回表れる重要な言葉です。本願は一切衆生の本国である、故郷である存在の呼びかけの声である。われの根元からわれわれに呼びかける、われの根元というより根元のわれである。それはむしろわれわれよりもわれわれに近くある、この最直接的な叫びに汝として呼びさまされるということは、容易なことではないのです。そのために欲生我国の本願は自己自身を限定して教言の願生彼国となったのである。他に説いて教えるということは、同時に他の言葉を聞いて覚るということを予想する、本願が自己を限定するということは即ち説き聞く、という教え教えられる関係に自己を限定するということである。願生彼国は教主の教言であるとともに、また衆生の理解でもあるわけです。天親菩薩はこの教言を通して願言に触れた新人の理解を願生安楽国と表明していられる所以であります。こうして天親の信心の表白の内容でもあるわけであります。いわばわれわれを底に超越せる本能としての欲生の本願は、いまやわれわれ衆生の自覚として願生の信心となったのである。願生彼国は欲生我国の成就である。本能的であったものが自覚的となったのが成就である。欲生は大地の内面を流れている地下水の響きである。その沈黙のささやきの如き叫びは雑音の世界のわれわれには、雑音に障えられて容易に聞こえないのでありますが、しかし如何に幽かであってもそれは存在の真理の声である。雑音はいかにやかましくても結局夢の中の音響にすぎない。量的に大きくても質的には之に打勝つことは出来ない。だから容易でないというのであって、必ずしも不可能というのではない。難値難獲は不可能ということでなくして容易でないということであろうと思います。

 容易でないというのは個人的ではなくして歴史的ということである。原理的なる欲生我国は、願生彼国として歴史的現実となったのである。内面に深くかくれていた欲生はその内面的な深みを失うことなく、しかも歴史的に公開されたものとなった。これが教え教えられるということの意義であり、間接的ということのもつ意義であり、言葉というものの意義である。言葉となることは公開的なものとなることである。彼国は我国の叫びを間接的な言葉に表現しているのである。その「彼」の一語に教の相というものが立てられ、教学の独自もこの「生」の一語に象徴されるのである。感の教学ということであるのですが、欲生とか願生とかの表現即ち単に無生の理でなくして願生というところに、感の教学体系を成立せしめる原理があるということが出来る。感覚も感情も願の意欲に綜合されるのである。

 生を感覚の内容とすれば、無生は感情の内容でる。感覚の衆生を内に目ざまして無生の感情を開くところに、願生の意欲というものがあるということが出来るかと思うのであります。とにかく願生とは欲生とかは純粋感覚の教学の原理を表現しているものであって、純粋知性の教学にはこれをみることが出来ないのである。こういうことも照応的に明らかにされてくることであります。

 道元禅師に照応するというのは、此国の仏教古典の中で極めて難解な表現のあるのは道元禅師とわが親鸞、仏教の古典はいろいろあるが、道元禅師の言葉と親鸞の言葉というものは極めて独自な表現といわれておる。そこに他の追従を許さぬ表現がある。口真似を許さぬ表現がある。借りてきた言葉でなしに親鸞には親鸞でなければ言えないもの、存在が親鸞を通して、また道元禅師によって思想となって自らを表現しているのである。思想となった存在こそ真の表現というもの、真言実語というものである。そこにほんものがあるというわけです。私の話も題がなくて話しているのですが、題がないと何所へゆくやらわからんから 「ものがちがう」 ということにしましょう。どれだけ言っても観念的に虚妄の言では腹がふくれぬ。ここに真にして実、真仮を判明にするところの批判ということが大切である。 「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」 という、親鸞のきびしいお言葉がある。またそれをうけて、 「真なるものは甚だ以て難く、実なるものは甚だ以て稀に、偽なるものは甚だ以て多く、虚なるものは甚だ以て滋し」 という悲歎が述べられている。同じ浄土の教学でも親鸞以前は浄土に就いて真仮の区別がない、浄土といっても方便化土と真実報土の区別がない。他力といっても主観的の信心と、主観を突破した回向の信心との区別がない。それは何故かというと信仰批判がない、信心の自己批判がない、批判が徹底的でない。親鸞の教学のもつきびしさというものは、信心が信心自身を反省してきた、信心が信心自身を批判してきた、そしてその批判を通して真の信心というものを基礎づけてきたというところにある。」  次回は3月11日に掲載します。