唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(12) 六理証 その(Ⅲ)

2012-03-15 22:23:35 | 心の構造について

 真実ということなのですが、『正信偈』に「無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と、親鸞聖人は語られています。「無明の闇を破す」ということについては、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『総序』)と。無明の闇はすでにして破られている、「しかし」、貪愛・瞋憎の雲霧が真実信心の天を覆っていると、我が身の現実を見据えられておられますね。真実とは、『唯識』では無我の理と無漏の智慧のことであると教えられています。諸法実相です。『唯識』では円成実性といいます。「覆眞實相顯虚妄相」と、覆っているものですから、現実は虚妄の相を現しているのです。『歎異抄』では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られています。念仏は真実功徳相ですね。真実功徳相によって明らかにされた世界が、火宅無常の世界であり、我が身は煩悩具足の凡夫であることが一点の疑いもなくはっきりとしたということですね。闇は破られていることに於て雲であり、霧であることが見えたということです。見えてみれば、雲、霧は邪魔にならないというですね。無明の闇が破られて、「微細に、恒に行じ、真実を覆蔽」している末那識の存在が白日の下に晒されるのです。恒行不共無明が本性である、と。 次に進みます。

 理より説明する。

 「謂く、諸の異生は、一切の分に於て、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼を障う。」(『論』第五・九左)

 (つまり、諸の異生は、一切の分(善・悪・無記のすべて)において、恒に迷理の不共無明を起こして、真実の義を覆い、聖の慧眼を障碍するのである。)

 第一は小乗を論破して末那識が存在することを明らかにし、第二に不共の義を説明する。第一の中が二つ分かれる。初は経典の意義を述べ、後に小乗への批判を行う。この科段は『縁起経』の文を説明しています。

 諸の異生と述べて、聖者を除いています。理由は聖者は無漏智が現行する時、恒行不共無明が存在しなくなるからです。(煩悩具足の凡夫は)一切の分に於て、善も悪も無記の行為であっても、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼である無漏智を障碍しているのである、と。

 「論。謂諸異生至障聖惠眼 述曰。下釋有二。初破小乘立有第七。後釋不共之義 初中有二。初釋經義。後正難之。此除聖者。聖者無漏道現行時彼不有故。如下當知 一切分。通三性心 恒起。釋經恒行之字迷理不共無明。迷無我理故 覆眞實義者。能覆眞如釋覆義。義如前説 障聖惠眼者。遮無漏智。釋蔽義」(大正43・409c)

 「述して曰く、下は釈するに二有り。初は小乗を破して第七有りと立つ。後は不共の義を釈す。初の中に二有り。初は経の義を釈す。後は正しく之を難ず。此れ聖者を除くなり。聖者は無漏道の現行する時に彼れ有ならざるが故に。下の如し、当に知るべし。一切分とは三性心に通ず。恒に起こしてと云はば経の恒行の字を釈す。迷理の不共無明とは、無我の理に迷うが故なり。覆真実義と云うは、能く真如を覆うを以て覆の義を釈す。義とは前に説くが如し。障聖慧眼と云うは、無漏智を遮す。蔽の義を釈するなり。」(『述記』第五末・十六左)

 「真実を覆蔽す」の説明として、「覆」とは無我の理に迷うこと、即ち真如を覆うことをいい、「蔽」とは無漏の智を障碍することであると説明されています。理を覆い、智を蔽すことが恒行不共無明で有ると述べられているのです。

 次に、重ねて証拠の文(『摂大乗論』)を引用し、論証する。 (つづく)


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