唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(5) 二教証 (Ⅳ) 第一教証

2012-03-07 21:16:15 | 心の構造について

 第八識は「諸法の種子を集め、諸法を起こすからである」と。集起の義を以て、第八識を心という、と述べられていました。「第八識は無記であり、心は常に無記の法である」といわれています。集起は又、積集の義ともいわれます。しかし『瑜伽論』巻第六十三には「此の識能く一切法の種子を集聚(しゅうじゅう)するが故に」と、集聚の義であると述べられています。意味は同じなのですが、意義としては集め生起するということよりも、「聚」という、ともがらですね。分別が無いことを表しています。すべてが平等なのです。善とか悪という色づけをしないのですね。ここに「聚」という事柄に於て無記であることがはっきりします。末那識は色づけをするのですが、その染汚に色づけされたもの、自分にとって都合のいいものを善とし、都合の悪いことを悪となして色づけするわけです。しかし第八阿頼耶識は、すべてわけ隔てなく無記の法として集聚するのです。

 そして、末那識ですが、有漏の末那識と無漏の末那識が説かれます。安慧においては、無漏の末那識は認めていない(「三位に末那無し」が安慧の立場です)のですが、護法正義によって、無漏の末那識の存在が明らかになったのです。「第八阿頼耶識等を縁じて、恒に審らかに思量して我等とするからである」と。恒審思量が末那識の特徴です。そして表層の六識を識というのです。六つの別々の認識対象に対し、眼識は色境、耳識は声境、鼻識は香境、舌識は味境、身識は触境を、意識は法境をそれぞれ別々に認識対象として、麤動に間断しつつ、了別して活動する」と述べられていました。厳密には境それ自体は存在するものではありません。識が何かに似てあらわれているものです。識の内容を対象としているのを境といいあらわしているのです。第一教証として、『入楞伽経』の伽陀を引用してその証としています。そしてですね。その他、大乗経典にも典拠が有ることを示しているのです。

 「又大乗経に処々に別に第七識有りと説けり。故に此れいい別に有り。」(『論』第五・八左)

 (また大乗経典に種々の典拠がある。六識とは別に第七識があることが説かれている。従って第七末那識は六識とは別に存在していることがわかるのである。)

 (「述曰。謂入楞伽上下無量文。及佛地經等亦爾。説有平等智。莊嚴論説轉第七識得。此唯大乘所信論。』 大正・409a)

 「述して曰く、謂く入楞伽の上下に無量の文あり。及び仏地経の等にも亦た爾なり。平等智有りと説けり。荘厳論には第七識を転じて得と説けり。此れは唯だ大乗の信ぜる所なり。」(『述記』第五末・十四右)