「第一は、我見と我慢と我愛は根本煩悩ではない。無明は根本になるという。無明によって見がおこり、見によって慢、慢によって愛がおこる。これは自我意識の現象学である。根本になるという点で、不共無明という。『起信論』は根本無明という。それを唯識では不共無明という。しかし、それだけならば、見慢愛が根本煩悩ではないということになる。もし根本煩悩でないなら、随煩悩ということになる。根本に随って起こる煩悩ゆえに、随煩悩である。しかるに見慢愛は根本煩悩である。根本煩悩は六である。随煩悩は二十あるが、遍染の惑は十である。見慢愛の三つは随煩悩に入れず、根本に入れている。これは如何。」(『安田理深選集』第三巻、p175)
- 根本煩悩 - 諸の煩悩のなかで根本となるもの。それを根本として他の付随的なぼんのう、随煩悩が生じる。三毒の煩悩として貪・瞋・癡があげられ、六種の根本煩悩として、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見があげられる。ただし、末那識相応の煩悩としては、我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩を根本煩悩といわれ、「末那識は恒に阿頼耶識を縁じて我癡・我見・我慢・我愛の四根本煩悩と相応す」といわれます。
第二師の説を述べる。
「初に前を破し、次に難を申べ、後に難を釈す。此れは初なり。」(初めに、第一師の説を論破し、次に自説を述べる。後に自説に対する問と答えが述べられる。)
「有義は、彼が説く理・教と相違せり。純随煩悩の中に此の三を説かざるが故に。」(『論』第五・十右)
(有義の説くことは、第一師が説くことは、理と教とに相違する。何故なら、純随煩悩の中には、この三つは説かないからである。)
第一師の説は理論の上にも、教えにも相違すると述べ、三つの過失があると批判しています。この科段は第一の過失を挙げています。第一師は三つの煩悩は根本煩悩ではなく、随煩悩であると説くことに対して、随煩悩の中には見・慢・愛は入っていないと批判します。随煩悩は二十種数えられます。忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・無慚・無愧・掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知ですが、この中に、我見・我慢・我愛は入っていないと批判することが、第一の過失になります。
「 論。有義彼説至不説此三故 述曰。此師有三。初破前。次申義。後釋難。此初也。二十隨非名煩惱。如前已説。不見不正知名我不正知。亦不見憍名爲我憍掉名我掉。又離二十外無別此三隨。更別推求無此三故。是爲一失。」(大正43・410b)
「述して曰く、 (中略) 二十の随をば煩悩と名づくるには非ず。前に已に説きしが如し。不正知を我不正知と名づけたることを見ず。亦た憍を名づけて我憍と為し、掉を我掉と名づくることを見ず。又二十に離れて外に別に此の三の随無し。更に別に推求するに此の三無きが故に。是れを一の失と為す。」(『述記』第五末・十九右)
「疏。不見不正知至掉名我掉者。問前師但云以隨惑中不正知等。是此識中我見慢等。誰言隨中説不正知爲我憍等 答若隨惑中不説我憍我掉等者。何理得知。隨中憍等是第七識相應慢等。若言説者教無文故。故爲斯難。」(『演秘』、大正43・903c)
「疏に、不見不正知というより掉を我掉と名づくるに至るは、問う、前師は但随惑の中の不正知等を以て、是れ此の識の中の我見慢等と云う。誰か随の中に不正知を説いて我憍等と為すと言うや。答う、若し随惑の中に我憍我掉等を説かずんば、何の理をもって随の中の憍等は是れ第七識と相応する慢等なりと知ることを得ん。若し説くと言はば教に文無きが故に、故に斯の難を為す。」(『演秘』第四末・三十二左)
第一師の第二の過失を挙げ、批判する。
「此の三は六と十との煩悩に摂めらるる故に。」(『論』第五・十右)
(我見と我慢と我愛の三は、六と十との煩悩に摂められるものだからである。)
第一師の説は、前にも述べていますが、我見と我慢と我愛の三は根本煩悩ではなく、随煩悩であるといい、根本煩悩である無明と共ではないと論じていました。この主張を、論拠を以て破斥します。『瑜伽論』巻第八等には六つの根本煩悩が説かれ、『対法論』巻第六等には十の根本煩悩が説かれている。そしてこの三は六或いは十の根本煩悩の中に摂められている。従って、どうして随煩悩というのか。根本煩悩であるから共無明というべきであって、不共無明とはいえない、と。
「論。此三六十煩惱攝故 述曰。依瑜伽等説六根本煩惱對法等論説十根本煩惱。此三皆是若六。若十煩惱所攝。何名隨感」(大正43・410b)
「述して曰く、瑜伽等に依るに、六の根本煩悩を説き、対法等の論に十の根本煩悩を説く。此の三は皆な是れ若しは六、若しは十の煩悩に摂められたり。何ぞ随惑と名づけん。」(『述記』第五末・十九左)