無明長夜の燈炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ (『正像末和讃』 真聖p503)
「誠智 無明長夜之大燈炬也 何悲智眼闇」というは、誠知は、まことにしりぬという。弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり。なんぞ智慧のまなこくらしとかなしまんや、とおもえとなり。「生死大海之大船筏也 豈煩業障重」というは、弥陀の願力は生死大海のおおきなるふね、いかだなり。極悪深重のみなりとなげくべからずとのたまえるなり。」 (『尊号真像銘文末』 真聖p530)
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次に、小乗の説は比量に相違することを述べる。
「倶に異生の位なるを以て、迷理の無明行ずるときと、行ぜざるときと有りと云はば、理に応ぜざるが故に。」(『論』第五・十右)
(倶に異生の位であるにもかかわらず、迷理の恒行不共無明が働く時と働かない時があるということは、理に応じないからである。)
異生は不共無明と倶である。にもかかわらず、倶でない時があるということは理に背くことになり、論理矛盾を犯すと、小乗の説を前提として述べられています。説明としては、因明の立量を以て示しています。先に『述記』本文を記します。
「論。倶異生位至不應理故 述曰。此違比量 量云。汝言異生起善・無記位無無明時。無明應亦起。異生位故。如餘起時。」(大正43・410a)
「述して曰く。此れは比量に違しぬ。量に云く、汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時にも、無明はまさに亦起こるべし。異生の位なるが故に。余の起こる時の如し。」(『述記』第五末・十八右)
- (宗) 汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時にも、無明はまさに亦起こるべし。
- (因) 異生の位なるが故に。
- (同喩) 余の起こる時の如し。
末那識の存在を認めなければ、比量相違の過失になると批判しています。理由は、小乗では、善・無記の状態では、無明は起こらないとするが、異生である限り無明と倶である、倶であるから異生という、と。異生は恒行不共無明を持っていると推量される。その推量が正しいならば、小乗の主張は比量相違の過失が有るといわなければならないのです。
『述記』の量について、『唯識論聞書』(大正66・738c)に説明がされています。
「 一。倶異生位迷理無明等文ノ事 讀師云。疏量ノ宗法ヲ見レハ。無キ無明時可ト起云云 成ンヌ自語相違ニ。難シ思 光胤申云。只善無記位ニ無明可ト起立テヨカシ 讀師云。サヤウニ立テハ。可有違宗ノ過。大乘ノ心善無心ニハ無キカ無明故。此量ハ他比量也。疏ニ汝ノ言ヲ置ク。若爾不可有自語相違之過」
『述記』の説明には、最初に「汝」の言を置いているので、「自語相違の過有るべからず」と、「汝が異生の善・無記を起こせる位の無明無しと言う時」が小乗の主張になり、「無明はまさに亦起こるべし。」が大乗の主張になるという。