唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(21) 六理証 その(⑫)

2012-03-26 22:20:56 | 心の構造について

 第三の過失を挙げる。

 「處處に皆、染汚の末那は四の煩悩と恒に相応すとのみ説けるが故に。」(『論』第五・十右)

 (諸の論書には皆、染汚の末那識は我癡・我見・我慢・我愛という四の煩悩と恒に相応するとのみ説かれているからである。)

 「論。處處皆説至恒相應故 述曰。論説與四煩惱倶故。不言與隨煩惱倶故。對法第七説諸煩惱皆名爲隨前師可爾。若隨非根本。此是根本亦是隨攝。以隨不言是煩惱故。即此三種唯説是根本。純隨中無。故證此三非隨惑也 若爾此癡何名不共」(大正43・410b)

 「述して曰く、論に四の煩悩と倶なりと説く故に。随煩悩と倶なりと言わざるが故に。対法の第七に諸の煩悩を説きて、皆名づけて随と為せるを以て。前師も爾る可し。若し随は根本には非ず。此れは是れ根本なり、亦是れ随にも摂む。随をば是れ煩悩と言わざるを以ての故に。即ち此の三種をば、唯だ是れ根本と説くことは純随の中に無きが故に。此の三は随惑に非ずと云うことを証するなり。若し爾らば此の癡を何ぞ不共と名づけん。」(『述記』第五末・十九左)

 この三は随煩悩ではないという証拠を挙げて、第一師の説を論破していますが、ここで問題が提起されています。「若し爾らば此の癡を何ぞ不共と名づけん」と。我癡と他の三とは何故不共というのか、共ではないのか、という問ですね。それに答えているのが次の科段になります。無明は主であり、他の三は従であるといいます。主とは根本です。他の三と一緒に生起しているのですが、無明が主となると言う意味です。主となるという意味で不共であるといいます。

 「応に説くべし。四が中には無明いい是れ主なり。三と倶起すと雖も亦た不共と名けん。無始際より恒に内に惛迷して曾て省察せず。癡いい増上なるが故に。」(『論』第五・十左)

 (まさに説く。四の煩悩の中では、無明が主である。そのため、我見・我慢・我愛の三と倶起するといっても、また不共という。無始以来恒に自己の阿頼耶識に対して執着して、曾って阿頼耶識が我ではないのではないかと省察したことがない。それは癡が増上だからである。)

 「論。應説四中至癡増上故 述曰。此申義也 主是自在義。爲因依義。與彼爲依故名不共。何故無明名爲不共 謂從無始際。顯長夜常起 恒内惛迷。明一切時生曾不省察。彰恒執我無修返時。此意總顯癡主自在義」(大正・43・410b)

 「述して曰く、此れは義を申ぶるなり。主と云うは是れ自在の義なり。因依の義と為る。彼が與に依と為る故に不共と名く。何が故に無明を名けて不共とする。謂く、無始際よりとは長夜に常に起こると云うことを顕す。恒内惛迷と云うは、一切の時に生ぜりと云うことを明かす。曾不省察と云うは、恒に我と執して修返(善を修し善に返ずる)する時無しと云うことを彰わす。此の意は総じて癡の主との自在なる義を顕す。」(『述記』第五末・二十右)

 無明が四の煩悩の主であり、その他の依り所となるものであって、主と従の関係から不共というと説かれていますが、『述記』の説明によりますと、「無始際」というのは、長夜に常に起こることを顕しているのである、と。無始よりこのかた今に至るまで恒に生起しており、すべての時に活動していることを明らかにしている。そのことによって、恒に阿頼耶識を我であると執着して、曾って省みることがないことを顕し、この三点によって無明が主であり、何事においても無明が主として活動している。活動すること自在である、と。