唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(2) 二教証 (Ⅰ)

2012-03-03 22:52:34 | 心の構造について

Title03e381b2  総じて答える。

 「聖教と正理とを以て、定量と為るが故に。」(『論』第五・八右)

 (第七末那識の存在が知られるのは、聖教と正理(しょうり)とを以て定量(じょうりょう)とするからである。)

 定量 - ある認識や判断の正当性を裏付ける根拠。文献的根拠と、理論上から知られる根拠をいう。

 別して答える。(教と理から個別に答える。)

 「述して曰く、自下は別に答す。中に於て二有り。初には顕なる経に依って、教を以て有と証す。次に隠なる経に依って、理を以て有と証す。初の中に二有り。初には不共許(ふぐうご)の経、二には共許(ぐうご)の経。此れ等の経は大小に通じて有と云うを明かす。然るに七十六解深蜜経及び楞伽に大に文有り。小乗の謂く未来をば心と名づく。過去は是れ意なり。現在は是れ識なり等種々に分別して然も別体無しと云う。今は顕に経に於て別に体有りと言うことを。上には証じて解し已りぬ。」(『述記』第五末・十二左)

 教と理から個別に答えられるのですが、これが大きく二つに分けれるのです。第一は、二教証です。これは「顕なる経」(顕なる経典)に依って、教を以て第七末那識が存在することを証明します。第二は、六理証です。これは「隠なる経」(隠なる経典)に依って、理を以て第七末那識が存在することを証明します。

 初の二教証について、さらに二つに分けられて説明されます。第一の教証は、不共許の経典(大乗の経典)を引用します。小乗仏教では大乗経典は仏説ではないとして不共許の経典とされます。第二の教証は、共許の経典を引用します。大・小乗共に承認されている経典を以て論証します。

 小乗仏教においては、六識と別の体をもった末那識の存在を承認していなく、未来の心を心といい、過去の心を意といい、現在の心は識と名づけれられるのであって、同一の体であるとする。しかし、大乗仏教では、六識とは別の体をもった識が存在するという。その証拠が下に述べられる『論』の一文である。

 「謂く、薄伽梵(ばぎゃぼん)の処々の経の中に、心と意と識との三種の別義を説きたまえり。集起(じゅうき)するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三が別義なり。」(『論』第五・八右)

 (つまり、薄伽梵(仏の別名)が処々の経の中に於て、心・意・識との三種の別義を説かれているからである。集起(あつまること。業果である種子を集める阿頼耶識が心であると解釈する。)するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけるのである。これが三つの別義である。)

 先ず第一教証が説かれます。大乗経典の引用です。不共許の経典といわれます。これは小乗仏教からの大乗仏教への批判です。仏説ではないと。しかし、ここでは先ず不共許の経典を挙げ、大乗経典に於て第七末那識の存在が証明されていると述べています。大乗経典においては、心・意・識は小乗のいうような働きではなく、集起するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけ、それぞれ別個の存在であることが示されていることを明らかにし、即ち阿頼耶識は集起する心であり、第六意識は了別する心であり、思量する心は、末那識に他ならないとして、第七末那識の存在を証明しているのです。