後半は、『解脱経』の中の『頌』である第四句を解釈する一段です。
「爾の時には、此の意と相応する煩悩は、唯だ現のみに無きには非ず。亦た過未にも無し。過去未来は自性無きが故に。」(『論』第五・九左)
(その時には、この意と相応する煩悩は、ただ現在のみに無くなるのではなく、亦た過去にも未来にも無くなるのである。なぜなら、過去と未来には自性が無いからである。)
第四句は「曾にも非ず当有にも非ず」を指し、「諸惑を解脱しぬるときには」をうけて、「曾にも非ず当有にも非ず」と。諸惑を断じる時には、煩悩の種子も断じ尽くされ、煩悩は倶起しないと云われています。従って、この第七末那識と相応する煩悩は現在のみに無くなるのではなく、過去及び未来にも煩悩は無いというのですね。その故は過去にも未来にも体は無いからである、と。「現在有体過未無体」という立場です。有部は「三世実有法体恒有」という立場をとっています。しかしこの大小乗共許の経典に 「非現無亦無過未 過去未来無自性」 と述べられている一文が大乗の立場を承認していることを以て、この論証が正しいことを述べています。
「論。爾時此意至無自性故 述曰。釋第四句。住無學位。此意相應諸煩惱等。非唯現無。亦無過・未。現在理無。不倶起故。種已斷故。然薩婆多等計。惑雖斷於過・未世仍有體在。去來世有故。今擧共許則云非唯現無。偏破彼宗故。云亦無過・未。過未・無體故。頌中唯言去・來無。不言現在無。爲極成故 此經大小共信。十八部共許諸部解別 上座部等計。即染第六識惑許並生。別有細心是第六意恒現行故。如受生心等大衆・經部等解。如常施食受樂。非謂一切時有名恒 薩婆多等非四惑同時倶。此即前後有倶。常施食等 今大乘云即是我第七識。此中至教諸論所無」(大正43・409b)
「述していわく、第四句を釈するに、無学の位に住する時には、此の意と相応する諸の煩悩は、唯現のみに無きには非ず。亦た過未にも無し。現在には理無し、倶起せざるが故に、種を已に断ぜるが故に。然も薩婆多等の計すらく(『倶舎論』第二十一巻)、枠は断ずと雖も、過未来世に於て仍(惑の)体在ること有り。去来世有るが故に。今は共許せるを挙げて、則ち唯現のみに無きには非ずと。偏に彼の宗を破するが故に。亦は過未にも無しと、過未は体無きが故にと云う。頌の中には唯去来に無とのみ言う、現在は無しと言はざることは極成せんが為なり。故に此の経をば大・小共に信ず。(小乗の)十八部共に許せども、諸部の解すること別なり。上座部等の計すらく、即ち染の第六なり。諸惑と並生すと許す、別に細の心有り。是れ第六の意なりと、恒に現行するが故に。受生心等の如しと云う。大衆・経部等の解すらく、常に食を施し楽を受くと云うが如し、一切の時に有るを恒と名くと謂うには非ず。薩婆多等は四惑同時に倶なるに非ず。此れ即ち前後にして倶なること有りといわんとぞ。常に食を施す等という。今、大乗の云く、即ち是れは我が第七識なり。此の中の至教は諸論に無き所なり。」(『述記』第五末・十五右)
「 瑜伽第十六引經云。染汚意恒時諸惑倶生滅。若解脱諸惑。非先亦非後。彼自釋云。非先者與諸煩惱恒倶生故。非後者即與彼惑倶時滅故」(『成唯識論掌中樞要』巻下・二十五右、大正43・640a)
「瑜伽第十六に経を引きて云く。染汚の意は恒時に諸惑に倶に生滅す。若し諸惑を解脱せば、先にも非ず亦た後にも非ずと云へり。彼に自釈して云く。先に非ずとは、諸煩悩と恒に倶生するが故に。後にも非ずとは、即ち彼の惑と倶時に滅するが故にと云へり。」
『瑜伽論』巻第十六に「染汚の意恒時にして、諸惑倶に生滅す、若し諸惑を解脱すれば、先に非ず亦後に非ず。」と。
第七末那識は四惑と同生同滅することを説いているのです。
略説
「是の如き等の教えは諸部に皆有り、広文を厭わんかと恐れて、故に繁に述せず。」(『論』第五・九右)
(このような教えは諸部にみな説かれている。広く説くことは煩雑になることを恐れて、細かくは述べない。)
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