その理由を明らかにする。
「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、惛酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)
- 醒覚(せいかく) - 迷いからさめること。
- 惛酔(こんすい) - ねむく心が沈んでいる様子をいう。
(このために経典に説かれる。「異生の類は、恒に長い夜に身を処して、真実を明らかにする眼(慧眼)は恒行不共無明によって閉ざされ、惛酔して心をまとわれ、曾って迷いから醒めることは無かったという。)
この理由によって末那識の存在が証明されるということを表しています。不共無明は「行相微細にして知り難し」(微細常行行相難知覆無我理蔽無漏智)といわれていますように、恒時に行じて無我の理を覆い、無漏の智を蔽っているわけです。またこの不共無明は心所有法ですから、心王がなければないません。恒時というところから、前六識には間断があり、第八識は無覆無記であって、煩悩と相応するものではありませんから、いずれも不共無明と相応するものではないのですね。よって恒時に相応する第七識の存在が証明されるというのです。
「論。是故契經至曾無醒覺 述曰。説異生類恒處長夜。夜是闇故。無明恒有説爲長夜。若生死中無無明者便中明故 無明所盲者。謂此不共恒現行故盲其惠眼。不爾中途有無無明時即非無明盲 惛昧醉亂恒自纒心曾無醒覺。惛即無覺。醉即無醒。若中途有無無明時便有醒覺。以此經證無明恒行遍三性位 不爾恒行」(大正43・410a)
「述して曰く、説かく、「異生の類、恒に長夜に処す」とは、夜は是れ闇なるが故に。無明は恒に有るを以て説いて長夜と為す。若し生死の中に無明無くば、便ち中に明なるべきが故に。「無明所盲」とは、謂くこれの不共恒に現行するが故に、其の慧眼を盲す。爾らずば、中途に無明無き時有って、即ち無明に盲いらるるに非ず。惛昧し酔乱して恒に自ら心を纏はして曾って醒覚すること無し。「惛」と云うは、即ち覚すること無く、「酔」と云うは、即ち醒すること無きを以て。若し中途に無明無き時有らば、便ち醒覚すること有るべし。此の経を以て無明恒行して三性の位に遍ぜりと証す。爾も恒行ならざらんや。」(『述記』第五末・十七右)