唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(24) 六理証 その(⑮)

2012-03-29 21:21:32 | 心の構造について

 二は、問答により説明されます。この中に四つの部分がある。(問答を弁ずるに四有り。一に問、二に答、三に難、四に通)。これは第一の問である。

 「若し爾らば、余の識と相応する煩悩も、此の識の中に無きをもって、不共と名くべし。」(『論』第五・十左)

 (もし、そうであるならば、他の識と相応する煩悩も、この識(末那識)の中に無いので、不共というべきである。)

 前師(第二師)からの批判が述べられています。問として、「若爾~不共)です。『述記』の記述を見てみましょう。

「論。若爾餘識至應名不共 述曰。下問答辨有四。一問。二答。三難。四通。此問也 前師難言。餘識相應一切煩惱如見取等。此識中無應名不共。」(大正43・411a)

 「余の識と相応する一切の煩悩は、見取等の如きこと、此の識の中に無きをもって、不共と名くべし。」(『述記』第五末・二十二右)

 と。他の識と相応するすべての煩悩は、見取見等のようなものである。これらの煩悩は、第六意識特有の煩悩であって、末那識には存在しないから、見取見等も不共と名づけるべきではないのか、と問うているのですね。前科段において、「唯此識有故」と不共の理由が述べられ、余の識には無いから不共というのだ、とを受けて第二師が反論しているわけです。これに対して護法は次の科段において答えています。