不共の意味を問う。初に問がだされる。
「染の意いい恒に四の惑と相応せば、此れと倶なる無明を何ぞ不共と名くるや。」(『論』第五・十右)
(染の意である末那識は、恒に四の煩悩と相応するといわれている。それならば、恒行不共無明と倶なる無明をどうして不共というのであろうか、倶であるならば、共というはずではないのか。)
「論。染意恒與至何名不共 述曰。初小乘問。彼宗不共。無惑相應故」(大正43・410b)
「述して曰く、初に小乗問す。彼の宗は不共と云う、惑と相応すること無きが故と云う。」(『述記』第五末・十八左)
小乗からの問であると述べています。論拠は『倶舎論』第四巻になります。不共というのは、他の煩悩と共に相応しないという意味である。この考え方からの小乗側からの反論になります。護法が主張する、末那識の存在を証明するため、恒行不共無明の存在を明らかにしているが、末那識は恒に四の煩悩と相応して活動すると言われている。そうであるならば、共無明ではないのか。それを何故、不共無明というのか、という問です。この答えに三説が出されています。最後に述べられます第三師の説(護法の説)が正義とされます。
第一師の説
「有義は此れと倶なる我見と慢と愛とは根本煩悩に非ず。不共と名づくと云うに何んが失かあらんと云う。」(『論』第五・十右)
(有義は言う。これ(恒行不共無明)と倶である我見と我慢と我愛とは、根本煩悩ではないので、不共というのに何の過失があろうか。)
第一師の主張は、四煩悩の無明(我癡)が根本煩悩であって、その他の煩悩は根本煩悩ではなく、随煩悩であるといい、その為に根本煩悩と倶ではないという意味で不共であるという。
「論。有義此倶至名不共何失 述曰。下有三説。此即初師。此中無明不與根本共。非不與隨共。然此四(四字恐三歟)惑(私云。惑下一有中三之二字)非是根本。是隨惑攝故無此失 何隨惑攝耶 此有二義。一云非二十隨。二十外攝。雜事説。隨有多種故。即諸煩惱分位差別。隨其所應根本分位二云即隨惑。義説不正知爲我見。憍爲我慢。掉爲我愛。無明一種是根本故。」(大正43・410b)
「述して曰く、下に三説有り。此れは即ち初師なり。此の中の無明は、根本と共ならざるを以て、随と共ならざるには非ず。然るに此の三の惑は是れ根本に非ず。是れ随惑に摂するが故に此の失無し。何の随惑に摂するや。此れに二義有り。一に云く、二十の随には非ず、二十の外に摂す。雑事に説かく。随に多種有るが故に、即ち諸煩悩の分位の差別なり。其の所応に随って、根本の分位なり。二に云く、即ち随惑の義を以て説く。不正知をば我見と為し、憍をば我慢と為し、掉をば我愛と為す。無明の一種は是れ根本なるが故に。」(『述記』第五末・十九右)