「論。此依六識至便無此失 述曰。若謂不共在六識身。亦不應理。所以者何。應許此無明間斷。從所依識故。彼六識恒染。從無明續故。經・頌倶言無明恒起。其六識身許通三性。若六識身有此無明。此便間斷。彼六識身便唯染倶。許與無明恒相應故 攝論無性第一卷云。此於五識無容得有。非不染意識中有。亦非染意識中有。若謂意識由彼煩惱成染等 若復有説。善心倶轉等。若有説。染意倶有別善心等。料簡大精。然彼不共與此下相違。至彼對會。許有末那便無此失 上破小乘。下因解不共之義。」(大正43・410a)
「述して曰く、若し不共は六識身に在りと謂はば、亦理に応ぜず。所以は何ん。応に此の無明は間断すと許すべし、所依の識に従うが故に。彼の六識は恒に染なるべし。無明に従って続するが故に。経と頌に倶に無明恒に起こると言へり。其の六識身は三性に通ずと許すを以て、若し六識身に此の無明有らば、此れは便ち間断すべし。彼の六識身は便ち唯染とのみ倶なるべし。無明と恒に相応すと許すが故に。『摂論』無性第一巻に云はく、此れは五識に於て有りということを得べきこと無し。不染の意識の中に有るにも非ず。亦染の意識の中に有るにも非ず。若し意識は彼の煩悩に由って染と成ると謂はば等と云へり。若し復た有るが説かく、善心と倶に転ず等と云へり。若し有るが説かく、染の意と倶に別の善心有り等と云へり。料簡すること大に精し。然るに彼の不共に此の下と相違せり。彼しこに至って対して会せん。末那有りと許すには便ち此の失は無し。上は小乗を破しつ、下は因みに不共の義を解す。」(『述記』第五末・十八右)
『無性摂論』に『摂論』の(先に述べた)頌を釈して、「此の文は復余の道理を以て染汚の意を成立す。」と述べられています。染汚の意が無かったならば不共無明は成り立たないといい、不共無明は独頭の無明、或いは独行の無明と称して、貪・瞋等の煩悩と相応せず、単独に生起して真実智慧を障える根本無明なのです。独自であることを意味しているのですね。不共無明は五識に於ては理として相応しない。五識自体には障碍となるべきものが無いと。前五識には無明は起こらないといえるけれども、第六識には起こる。しかし起こらない時もある。第六識は染である場合と不染である場合が有る。染の場合は無明であって、不染の場合は無明というわけにはいかない、といわれるわけですが、しかし煩悩具足の凡夫である。それを成り立たしめているのが末那識であるといわれるのです。恒行不共無明が相応しているわけです。末那識に相応している無明です。「不共無明とは、謂はく一切の善と不善と無記と煩悩、随煩悩の位との中に於て、染汚の意と相応して倶に生ずる無明なり。彼若し無ければ大過失を成ず。」(『無性摂論』)と述べられ、小乗の説を破斥しています。これよりの科段から無明だけ特に不共というのは何故か、という不共の義を説明しています。