第四に、薩迦耶見・辺執見の二見と五受との相応について説明されます この二見と五受相応については、二つの説が有り、本科段は第一師の説になります。第二師の説は護法の正義になります。
第一師の説。
「有義は、倶生の身と辺との二の見は、但喜と楽と捨との受とのみ相応す、五識と倶なるには非ず、唯無記のみなるが故に。」(『論』第六・十八左)
有る義(第一師)は、倶生の薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二つの見は、ただ喜受と楽受と捨受とののみ相応すると説く。
(何故ならば)薩迦耶見と辺執見の二見は五識と倶ではない(五識には薩迦耶見・辺執見の二見は存在しないということ。五識と倶なるのは貪・瞋・痴のみである。)からである。また倶生起の薩迦耶見と辺執見は、ただ無記のみのものだからである。
倶生の薩迦耶見と辺執見の二見は無記であることは、『瑜伽論』巻第五十八に説かれている通りである。
後半には、分別起の薩迦耶見と辺執見の二見は、四つの受(楽受・喜受・憂受・捨受)と相応すると説かれます。
本科段は『述記』によりますと、倶生起の薩迦耶見・辺執見の二見は苦受と相応しない、
「意には苦受無し。五識と倶に非ず、故に苦受無し。」というのが第一師の主張になるということを明らかにしています。
また、「此の倶生は唯無記性なり」ということを以て憂受と相応しないことを示しています。
「憂と相応せず、憂は(善・不善の)二性なるが故に。」
唯無記性(有覆無記)であるということは善・不善である憂受とは相応しないということなのですね。
本科段の意図するところは、受倶門において述べられているところでもあります。先に投稿しました「受倶門」のコピーを参照してください。
「第六意識相応の有覆無記性の薩伽耶見と相応するのは憂根ではない。憂根は無記ではない。」
という意味から、薩迦耶見・辺執見の二見は、五識と倶に非ずという理由から苦受とは相応せず、無記性という点から、憂受とも相応しない、従って、相応するのは、喜受・楽受・捨受のみと相応するのであると主張しているのですね。
次科段は、分別起における五受との相応について説かれます。
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