唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (13) 

2012-07-27 23:05:40 | 心の構造について

 六識全体が意識であって混乱するのではないかという疑問が起こってくるのですが、、六識は不共であるから混乱はしないということなのです。混乱というのを濫という言い方をしていますね。それに対して末那識は六識にとって共依です。末那識は六識全体にかかってきますが、眼識は眼根にも依り、末那識にも依るということなのですが、意識は末那のみに依る、意識は意根が独自の依であるということです。それに対して眼根が眼識にとって独自の依、乃至身根が身識にとって独自の依になります。前五識と意識ですが、不共依ということで混乱の過失がないと説明しています。

 「六識身ながら皆意に依って転ずと雖も、然も不共なるに随って意識という名を立てたり、五識身の如く相濫ずる過無し。」(『論』第五・十六右)

 (六識身が、すべて意根に依って転じるといっても、不共という点から意識という名を立てたのである。五識身のように相い濫じる過失はない。)

 第一解 - 六識とも、意根(前滅の識を意根という点からの問題)に依る識であり、六識全体が意識と名づけられるべきであるが、どうして、そうならないのかという。第一解は、「ただ独り第七の不共の意根に依って」名づけられるのである。「余の五は即ち無し」と。「五識身も亦意に依るとも不共の根に依って称を得たるを以ての故に。」識は、その識独自の依り所である不共依の根に基づき名づけられるのである。「彼を眼識と名づけて意識と名づけざるが故に」。第六識は、末那識を不共依とし、第六識を意根による識、つまり意識と名づけられるのである、と。

 しかし、第七末那識を意根という場合には、さらなる問題が生じると『述記』は述べています。

 「問う、前に依を説くが如し。五・八も七に依る。何が故に第六のみにおいて不共の依と称す。」

 第六識に限らず、前五識も第八阿頼耶識も、第七末那識を所依としている。では何故第六意識のみにおいて不共依といい得るのか、末那識は第六識のみの不共依とは言えないのではないか、という疑問です。

 「答う、若し染浄依及び倶有依たるを以て七の五・八に望めても倶に是れ所依なり。然るに近順生の不共の識は即ち唯第六のみなり。今不共と言うは意近じて順生することを顕す。六の種子は必ず七に随せるを以ての故に、余の五等は然らず。故に此れ名を得ること相い濫ずる失無し。此れを第一解と為す。」(『述記』)

 若し染浄依及び倶有依であるという点から述べれば、六識全体は意識と述べなければならない、末那識は、前五識に対しては染浄依・第八阿頼耶識に対しては倶有依という所依であるが、「近順生」という点からは、ただ第六識しかないという。

 「若し染浄依及び倶有依ならば、七は五・八に望めて倶に是れ所依なれども、然も近く順じて生ずる不共依ならば、即ち唯だ第六なり。今不共の意と言うは近く順生するを顕す。何となれば六の種子を必ず七の種に随せり、七の種現を生ずるときに意識は随って生ずるを以てなり。眼識の種の眼根の種に依るが如し。此れも亦是の如し。五も八も第七の種に依ると説かず。故に此の得名に於て相濫ずる失無し。」(『了義燈』)

 『了義燈』は、「近く順じて生ずる」と説明しています。第六意識と第七末那識との関係は、他の識と違って密接な関係があるという点から、意識が末那識を所依としていることを不共依といい得ると説明しているのです。

 明日は『述記』と『了義燈』の所論を述べます。

 

 

 


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