唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 起滅分位門 五位無心 ・ 滅尽定について

2010-12-23 22:24:09 | 五位無心

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  画像は 『選択本願念仏集』 標挙の文  goo提供

 「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。」(真聖p399)教行信証後序・p727『御伝鈔』上末)

       ―    ・    ―

 第三能変 起滅分位門 滅尽定について

    滅尽定 第一段 第五 釈名

 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 (意訳) 偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。

 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づける。その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれる。

 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば,滅受想定と名づける。「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。

 次には第二段から第六段の概略です。

  •  第二段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
  •  第三段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないでいられるのかです。)
  •  第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
  •  第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
  •  第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
  •  第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」

 以上で滅尽定についての概略を記しました。まとめますと『論』の記述から要旨を伺いますと、

 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 の文につきるのではないかと思います。「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。以下『論』の説明は12月3日・4日の項を参照してください。

        ―  雑感  ー

 仏道の課題は自利利他成就であることを述べています。二乗及び七地以前の菩薩には人執は滅することはできるが、法執は残るといわれています。二乗地に堕するを菩薩の死と名づく、といわれ、声聞は自利にして大慈悲を障える、ともいわれていますが、このことは何を意味するのかですね。生死解脱を目指して仏道修行をするのですが、その仏道が問題にされているのではないかと思うわけです。いうなれば、七地を超える課題です。『浄土論註』・不虚作住持功徳成就に二つの喩えを出して宿業を生きる凡夫の相が見つめられています。「人、飡(さん)を輟(とど) 止也貞劣反 めて士を養い、或は舟の中に?起(つみおこ)すこと有り、金を積みて庫に盈てれども餓死を免れず。」この初の喩えは『呉越春秋』巻二・巻四と『魯子春秋』第十に出る故事ですが、飼い犬に手を噛まれるということをいっています。即ち、呉の公子である慶忌が敵の臣下、要離を誤って信じ、食事や給与を与えて養っていたが、要離は有るとき船の中で、隙を見て謀略をめぐらし、公子である慶忌を討ったという裏切りの記事が載っている。また次には『前漢書』第九十二・三にでる故事が引用されています。登通という者が、漢の文帝に可愛がられ、大金を貯めるほどの幸せの境涯にあずかったが、逆にこの幸せを受けたことが仇となって次の帝、景帝の時には、この大金は没収され遂に餓死してしまうという、この二つの故事を引き合いにだして、宿業を生きるをえない人間がみつめられているのですね。虚作の相を示しています。凡夫の虚作の相は「虚妄の業をして作して住持すること能わざるに由ってなり」といわれています。このことは、人間の能力の上には利他は成立しないことを示唆しているのでしょうか。自利利他円満成就という大乗仏教の面目は「菩薩は出第五門の回向利益の行成就したまえると」、説かれ、成就は「回向の因を以って教化地の果を証す」と。この因と果は不虚作の相として、「本、法蔵菩薩の四十八願と今日の阿弥陀如来の自在神力とに依るなり」と。この願と力に由って未証浄心の菩薩が上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得ることができるのであると、いわれるわけです。ここにですね。自利利他が円満成就する道が開示されたわけです。大乗仏教に於いて自利と利他の限界が七地として説かれています。修道は第六地(現前地)において般若が現前してくるところで完成するのですが、最後の作心が残るのですね。「菩薩七地の中に於して大寂滅を得ば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、仏道を捨てて実際を証せんと欲す。」 真如のみを欲して仏道の目的を失い作心を以っての故に菩薩の願心である下化衆生を忘れ、七地の中に埋没してしまうのです。古来、七地沈空の難といわれ、自力の作願・回向では超えることができない、といわれているわけです。(前編・完)


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