唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (12)

2010-12-19 18:12:05 | インポート

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『唯信鈔文意』 親鸞聖人真跡本

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    『唯信鈔文意』に聞く (12) 大涅槃にいたる

 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より

  「『十方世界普流行』というは、『普』は、あまねく、ひろく、きわなしという」

 この 「あまねく」というのは、 「普」 の文字の意味から出ますが、 「ひろく、きわなし」 というのは、それから出てくるところでございますね。ですから、もとに如来の尊号ということがあるということを念頭におかなければならないわけでございます。そうしませんと、抽象的に文字の解釈にすぎないとしか見えません。 「ひろく」 ということは、これは十方世界でございましょうね。 「きわなし」 ということになりますと、無量ですね。はかりなしという。ですから十方世界の無量の諸仏が讃嘆せられるという意味があります。

  「『流行』 は、十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもうなり」

 これもよろずの如来、よろずの諸仏如来がすすめられるという意味があります。 「十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもうなり」。 十方諸仏と申しましても、名号を称揚讃嘆するということによって、諸仏になられるわけですから、本願によって、諸仏というものが衆生を教化せられるわけですね。それはやがて、如来の尊号があまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめるということになります。

  「しかれば、大乗の聖人・小乗の聖人・善人・悪人・一切の凡夫、みなともに、自力の智慧をもっては、大涅槃にいてることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この如来の智願海にすすめいれたまうなり」

 この「十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもう」 と。それによってどういうことが明らかになるかといえば、 「しかれば、大乗の聖人・小乗の聖人」、 「大乗の聖人」 ともうしますのは、大乗の菩薩、いわゆる十住十行ですかね。十回向十地というような、そういう菩薩の階級がございます。それから、 「小乗の聖人」 と申しますのは、これも四向四果と申しまして、阿羅漢にすすむためには、この四向四果という八段階の階級のさとりの境地が語られるわけであります。これはいずれも出家の人であります。出家の菩薩です。比丘であります。出家といえば比丘といわなくてもよいわけでありますが、いずれも出家の聖人である。

 「善人・悪人、一切の凡夫」 というのは、これは在家人です。善人といえば、まぁ仏陀に祇園精舎などを供養した給狐独長者、祇陀太子などですね。悪人ということになれば、物にあだをなしたいろいろな人がおりますね。外道の人であだをなした人もある。弟子になってからあだをなした提婆のような人もおります。あるいは阿闍世のような人もおります。その外の一切の凡夫、みなともに自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることがない。この大・小の聖人となることはできるけれども、大涅槃にいたることはないのだ。なぜか。自力の智慧をもって進んださとりであるからですね。いわんや、 「善人・悪人、一切の凡夫」 は、自力の智慧というものも持たないわけであります。その自力の智慧を持っておる大・小の聖人でもあっても、大涅槃にいたるということはない。なぜかと。自力の智慧であるから、自力の力でさとるわけでありますから、さとったといっても、そのさとりは自分だけ、自分だけさとったことになって、他の人に及ぶということは少ないわけですね。

 大涅槃というのは、一切の衆生を、つまり一切の凡夫をみなさとりの至らしめた境界である。こういう意味になります。涅槃というならば、大乗の聖人・小乗の聖人も得られるであろうが、大涅槃となったならば、広大な涅槃ですから、一切の衆生をことごとく涅槃にいたらしめねば大涅槃とはいわれない。それは自力の智慧をもって開いた涅槃では及ばぬわけですね。したがって、自力の智慧をもっては大涅槃いいたることがないと、はっきりいわれるわけであります。

 このことを明らかにするために、大乗の聖人・小乗の聖人、あるいあは一切の凡夫ということが意味をもつわけですね。 (つづく) 次回は12月26日に配信します。「無碍光仏の御かたち」という意味について配信します。

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 菩薩の行位と修行の階位について

十住(初住<十信も含める>~第十住

十行(初行~第十行)       

十回向(初回向~第十回向)

  第十回向が二つにわかれ 第十回向(初住より第十回向を三賢(順解脱分)-資糧位

  満心 - 四善根(順決択分) -加行位   

 資糧位と加行位が初阿僧祇 - 方便道

ここまでが地前の菩薩といわれます。以後の初地より第十地までを地上の菩薩とよばれます。

 次に通達位に入りますが、見道ともいわれ、ここで初めて(入心)無分別智の一部が現行し、真理を見るといわれています。

十地(初地~第十地)

  初地 - 入心 - 見道 - 通達位

      - 住心 -

      - 出心 - }修道 - 修習位 

  第十地(等覚を含む)

 初地より七地以前を第二阿僧祇・八地以上を第三阿僧祇となり第二阿僧祇と第三阿僧祇を聖道となり方便道とあわせて因道となります。

 仏果 ー 無学道 -究竟位 -果道

 よく初発心から仏果に至るまでの修行の時間が三大阿僧祇劫かかるというのはこういう意味があるのですね。しかしですね。仏果に至って初めて自利利他が円満成就するわけです。それまでは自利のみですね。自力の智慧をもっては大涅槃にいたることはできないのですね。因から果に向かうことができるという道があるということは、果より因に向かう道が想定されているということです。果が導いているわけですね。それが従果向因の菩薩です。『大経』に説かれます法蔵菩薩ですね。道すでにあり、ということです。

      


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