唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (5) 概略 (5) 大随煩悩 (2)

2015-05-28 21:39:43 | 第三能変 随煩悩の心所
 現象学的還元
  今日は大随惑の「不信並びに懈怠と放逸及び失念」についての概説をさせていただきます。
 大随惑 不信 不信とは仏法を信じない心です。真実に触れたくない心と言い換えてもいいのではないでしょうか。縁起の道理を信じないという事ですから、自分の思いを信ずる心ということになりますでしょうか。仏法の門は「信を以って能入と為し、慧を以って能度と為す」(『大智度論』)といわれますように「信」が大切なキーワードになります。すこし戻りますが「信」とは「実・徳・能に於いて深く忍じ楽し欲して心を浄ならしむを以って性と為す。」といわれますね。「一に実有を信ずる」(「一切法の若しは事・若しは理に於いて信忍する皆是なり」)実有ということは『演秘』には「因果の体・四諦の事」といっています。四諦の真理、因果の理を信じるという事ですね。今私がここに存在するという事は事実ですね、それは縁起の理にかなっているわけです。事実の中に真理があるのです。事と理は離れては無いという事ですね。事と理を深く信忍することが「信」のないようになるのです。「忍」は認識するということになります。ニは「有徳を信ずる」(「三宝の真浄の徳の中に於いて深く信楽する故に」)三宝の徳を信じ尊ぶということです。三は「有能を信ずる」(「一切の世と出世の善の於いて、深く力有れば能得・能成なることを信じて希望(けもう)を起こすが故に」)自分にも善を修する力が有ると信じ、その力を得ようと希望を起こすことになります。希望とは欲ですね。清浄意欲です。そしてこの三が心を清浄にするのです。ですから随煩悩でいわれる不信は信を崩壊する働きを持ちますね。不信は自己中心的に考えますから全ては疑いからはじまります。人間関係も砂上の楼閣です。自分の都合に合わせて聳え立っているだけですね。「信」は浄・「不信」は染汚です。不信は「実・徳・能」を信じないということになり、心を穢すことになるのです。「能く浄信を障えて惰の依たるを以って業と為す」と。怠惰が所依となるのです。「不信の者は懈怠多きが故に」といわれています。懈怠や怠惰の心の状態は自分の中だけにとどまらないのですね。「自相渾濁にして、復た能く余の心・心所をも渾濁すること極めて穢れたる物の自らも穢れ他をも穢すが如し」といわれますように、自分の穢れが他をも穢していくことになるのですね。これは自分の浄がまた他をも浄にしていく働きを持つという事をいわんとしているのですね。如何に自分の振る舞いが大切であるのかが教えられています。
 「正信偈」には「信」について、親鸞聖人は語られています。即ち「往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり」と。また「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。」と示してくださいました。「諸行無常・諸法無我」という因果の道理を信ずるということは、他力に由るのですね。曖昧さがないのです。自分の中からは信心は生み出されないという確信ですね。その確信がなかったなら疑いしかでてこないということです。その疑いが迷妄の根源になり生死に振り回されることになるのでしょう。。「初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う」(真聖P190)と。
 金子大栄先生が「死の帰するところを、生の拠り所とせよ」と私たちの生きる方向を指し示した下さいました。「死の帰するところ」は浄土ですね。真実涅槃界です。三界は迷いの世界ですが、涅槃界は三界を包んで広大な世界です。私たちが何を拠り所として自分の生を生き得るのかといいますと、一言でいいますと、我執なのですが、その内は「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。」ですね。この染汚を包んで「如来、一切苦脳の衆生海を悲憫して」「利他の真心を彰す。」といわれています。我執と云う雑毒の行をふりむけて浄土往生を願うことは「これ必ず不可なり」なのです。我執をもって善を修すれども、「一切凡少、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭然を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。」(真聖p228「信巻」)といわれます。浄土を生の拠り所とすることに於いて、生の意味が変わるのですね。生活そのものの具体性は変わることは無いのですが我執か・浄土かを拠り所とすることが生活そのものの意味が全く違ってくるのです。孤独と云う闇に留まるのか、開かれた教人信に生かされるのかということですね。世界観が闇か開放かの違いです。世界を「一人がため」とうけとれるのか、受け取れないのか、私たちは「今」生死の淵に立たされているのです。私は唯識を学ぶ意義はここに有ると思うのです。これでもかと言うほど煩悩の心が説かれますが、それほど私の闇が深く、真実を覆い隠していることを教えているのだと思います。「利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生心はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。」と。人は機といわれますね。機会の機です。チャンスということなのですが、何が機なのかといいますと、人になれるのか、成れないのかは今がその機会であるということでしょう。ですから私たちはチャンスを生かされているのですね。ものにできるのか、出来ないのかは自己責任です。回向と云う問題もニ回向といわれていますから、往相・還相のニ回向ですね。私は回向の二面性だと思っています。表が往相なら、背は還相、表が還相なら、背は往相というようにですね、二つの回向があるということではないと思います。「至心回向」の内面が往・還の回向になるのではないでしょうか。信心をいただくということは、私をもって仏事に参加させていただくということなのではありませんか。「一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。」という命をさずかるのではないでしょうか。
 懈怠
 「不信の者は懈怠多きが故に」といわれていました。不信は浄信を障えて惰を依所とするのですが、惰の依とは懈怠であるといわれているのです。『論』に「善・悪品の修し断ずる事の中に於いて懶惰(らんだー怠け怠ること)なるを以って性と為し。能く精進を障えて染を増するを以って業と為す。」いわゆる廃悪修善です。善を修し、悪を断ずる事の中にといわれますね。廃悪修善という事実の中に懶惰であるということが懈怠の性格なのです。懈怠が精進を障えるのです。それだけではなく染を増すといわれます。汚染です。汚れを増長するのです。「謂く懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。諸の染の事に於いて策勤(さくごん)する者をも。亦懈怠と名づく。善法を退するが故に」ここは大変に面白いことがいわれますね。策勤(さくごん)は努力です。悪いことに対して努力をすることも懈怠であるというのです。これは大切なことを教えていますね。自己中心的に物事を観て自分の思い通りに努力することも、一生懸命ではないのですね。懈怠なのです。私たちは一生懸命に努力することは素晴らしいことだと思っていますが、真理からみると懈怠なのです。そういえば訓覇信雄師は「本当に明らかにしなければならないことが見出せば仕事なんかしていられん、あんた達はようするに暇なんや、暇やから仕事に精を出しているんや」といわれていたことを思い出します。非常にインパクトの強い言葉の響きがあります。
 放逸
 「放逸は、罪をふせぎ善を修する心なく、恣に罪を作る心なり」(『ニ巻抄』)と、ほしいままに罪を作る心であるといわれます。欲望の欲するままに放置する心ですね。それを放逸だと。『論』に「染・浄品に於いて防し修すること能わずして縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。」染品(汚れた法)・浄品(浄らかな法)に於いて汚れを防ぎ、浄らかな法を修することができないことに歯止めがきかない状態を以って性質とするのです。染品(汚れた法)とは我執的なものであり、浄品(浄らかな法)とは執のまじらないことです。「防し修すること能わずして」ほしいままに罪を作る心なのです。「縦とは縦恣なり。蕩とは蕩逸なり。」(『述記』)縦はほしいままということです。蕩はだらしなくということですね。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩というのです。このこころが不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうのです。
 「謂く懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防し修する能わざるを総じて放逸と名づく。別に体有るに非ず。」
 怠ける心・貪る心・怒る心・おろかな心の四つの心に由って、我執を防ぎ、浄らかな法を修することができないことを放逸と名づけるのであるといわれ、放逸として独自の働きがあるわけではないといっているのです。放逸の内容は懈怠・貪欲・瞋恚・愚癡なのです。だらしなく・ほしいままに歯止めが利かないことを放逸というのでしょう。悪を防ぐこともなく、善を修することもないだらしなさですね。本当に厳しい言葉が続きます。そんなことは無いと言いたいのですが世法に流されている状態では反論もできません。
 『末燈鈔』また「御消息集』(真聖P566)に放逸無慚とあります。好き勝手な振る舞いをしておきながら、他に対して慚愧の心がない、自らの罪を恥じる事のない心ですね。煩悩具足の凡夫を「放逸無慚のものども」と押さえられてあります。誰の事でもなく私の事を言いあてられているのです。
 失念 
 「諸の所縁に於いて明記すること能わざるを以て性と為し、能く正念を障えて散乱の所依たるを以て業と為す。」
 あらゆる対象に於いてはっきりと記憶することが出来ないことを性とするのが失念の本性なのです。正しい思い(正念)を妨げ散乱の所依となるのです。念は明記不忘といわれています。記憶して忘れない。何を忘れないのかと云いますと正念という正しい道ですね。正見を得る目的を念じ忘れないことが、八正道の中でいわれます。八正道は正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八種の実践法です。正しい道とは縁起を説いた仏法ですね。仏法を忘れないということ。仏に成る道があるということを忘れてしまうのが失念といわれています。そして失念は忘れるという念と道理が判らないという無明との一分に摂められるのです。年をとってきますとどんどん記憶が薄れて物忘れが激しくなるのです、実感しています。これも煩悩のなせることなのですが、失念は物忘れが激しくなるということではなく「後生の一大事」に眼を閉じていると云う事だと思います。生まれてからこのかたそして死を迎えるまで一度も自己を問う事がない、このことが失念の内容ではないかと思います。ですから失念しているという思いもないのでしょう。ものを忘れたということであれば、記憶をしていた時期があったはずですね。記憶をしていたが、いつの時からか忘れてしまったという事も失念でしょうが、仏教でいう失念は正念を忘れるという事なのです。正念を忘れると心が千千に乱れるのですね。散乱です。ですから散乱しているということは失念をしていることなのです。正念を忘れているから心が散乱するのですね。「失念に由るが故に、散乱を生起す。・・・明らかに善等の事を記すること能わざる故に名づけて失念と為す」(『述記』)
 「失念は倶の一分に摂めらる。・・・論に復た此れは染心に遍ずと説けるが故に」(「染心に遍ずと言うは唯、念の分のみに非ず。染心の有る時には念有ること無きが故に」)
 残りの散乱と不正知は明日にします。
 余談になりますが、世の中には宗教批判がおおくあります。中東地域の民族対立には必ず宗教対立があり、それが紛争の種になっている、という批判ですね。
また、「能令速満足 功徳大宝海」そんなことはありえないだろう、という批判ですね。ここでは多くを語りませんが、批判する立場が問題なんですね。批判する立場が宗教を利用するということが起こってくるわけです。そこが解らない。それを仏陀は無明と悟られたのです。人それぞれの宗教観は違います。違いますが、批判する立場の自己が問われていることは間違いのないことであると思います。

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