唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門 (2)

2015-08-24 22:36:47 | 初能変 第三 心所相応門


 
  
   心所相応なのですが、第八識は五遍行と相応すると説かれていましたが、八識すべてがなにがしかの心所と相応するわけです。概略を述べますと、
 『成唯識論』巻第二・二十六右の四分義に於いて、「有漏の識が自体生ずる時、皆所縁能縁に似る相現ず」と、心王は心所と相応するんだと説かれておりました。
 「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」(『論』第二・二十六左)
 「彼の相応法」とは心所のことですね。識には必ず心所が相応していますから、心所法も同じように、能縁・所縁という形を以て現ずる。心には必ず心所法が相応すると説いてきます。
 心王 ― 八識
 心所 ― 五十一の心所をいう。遍行(5)・別境(5)・善(11)・煩悩(6)・随煩悩(20)・不定(4)
 心心所相応 ― 各識に相応する心所 /前五識…34 ・第六識…51 ・第七末那識…18 ・第八阿頼耶識…5
  前五識は34の心所と相応する。遍行の5と別境の5と善の11と貪・瞋・癡の3と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱
  第六意識は51の心所すべてと相応する。
  第七末那識は18の心所と相応する。遍行の5と別境の慧と四煩悩と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱。 
   第八識は5遍行と相応す。

 「所縁に似る相をば説いて相分と名づく。能縁に似る相をば説きて見分と名づく。」(『論』第二・二十六左)
 「此は能似をば見相に摂すると云うことを説く」(『述記』第三本・四十一右)
 繰り返しになりますが、大事な所ですから、ここを間違えますと混乱を起こしますので外境は無いんだと(心外の法は無し)繰り返し説いています。
 所縁に似る相 ― 相分
 能縁に似る相 ― 見分
 私たちは何を見ているのか。対象が有って対象を見ているのかが問われているのですね。そうではなく、心は対象に似て、あたかも対象が有るかのように、心を外に投げ出して、心の中を見ているというのが見・相の二分であるということですね。そうすれば、心の中の深さですね、迷いの深さです。見・相二分は染汚性ですから、迷いの深さを知れば知るほど人間の深さを知ることになります。外境有りとしますと、心は深まりませんね。すべて責任を外境に転嫁しますから、自分の中に問題が有ったと。気づきを得ることはありませんからね。自分の心の広さを見・相二分で現しているのです。心の豊かさは、迷いの深さに気づかせていただくところから、豊かさ、広さをいただくんですね。
 本文に戻ります。
 「阿頼耶識は無始の時より来た乃し未転に至まで、一切の位に於て恒に此の五の心所と相応す。是れ遍行の心所に摂むるを以ての故に。」(『論』第三・初右)
 第八阿頼耶識は、恒に五の遍行と相応して働くのです。それは、始め無き始めから、終わり無き終わりに至まで、阿頼耶識が動いている時は、この五の遍行と相応して働いているのです。
 ここが少し問題のあるところだと思いますが、往生と成仏の問題です。往生は現生であり、成仏は未来なんですね。唯識の観点から見ますと、往生は現生正定聚であっても、人としての身をもっているのですね。人としての身を持っているということは、そこには恒に阿頼耶識は転じたとしても、心は動いていますから、五遍行と相応して働いているということだと思いますね。言葉を変えたら、現生往生(現生不退。往生の身が定まる)と、未来往生(往生の完成)とでもいえましょうか。
 『述記』の解釈は面白いですよ。
 「此れは本頌を釈して相応の位次を云う。即ち常の字を解す。第三段なり。謂く此の本識の三位の中に初の狭き名を挙げて識の寛き体を釈す。故に無始より来た乃し未転に至るまで、即ち仏と成るを除いて余の一切の位なり。此れは自体の三位に於て二に通じて恒に此の五の心所と相応すと云うことを説く。」(『述記』第三本・初右)
 本識の三位とは、我愛現行執蔵位(遍計所執性)・善悪業果位(依他起性)・相続執持位(円成実性)のこと。
 傍線の部分がいいですね。「本識の三位の中に初の狭き名を挙げて識の寛き体を釈す」言葉の響きがとてもいいです。第八阿頼耶識の名は七地までに限るので狭き名であるといい、しかし本識の体は無始以来乃至仏果に至まで相続して断ずることがないので寛き体と云う。
 この「自体の三位に於て二に通じて恒に此の五の心所と相応すと云うことを説く」のは、命あるかぎり、悟りは依他起性なんですね。縁起されたもの。縁起に於てある存在は恒に五の遍行と相応して働いているということを明らかにしていることだと思います。
 依他起性は円成実性に於て証明された存在ということであり、空観でいえば、縁起は空性に於て証明された存在ということなんですね。
 本頌の第二十頌には「自性は所有無し」(無自性なるが故に空なり)といい、第二十二頌に至って「一切の法は性なしと説きたもう」。唯識性は「諸法の勝義なり」と。諸法は無自性であり、無自性なるが故に、無自性の於に戯論が寂滅するんだと説いています。
 遍計所執は迷いの依他起であって、依他起に依って遍計所執している現実があるというのです。しかし依他起は円成実に於て依他起なんですね。これが唯識実性と云われている所以なんです。

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