唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (4)

2015-10-12 22:07:37 | 初能変 第四 五受分別門
  

 阿頼耶識は何故、「捨」なのか。
 「此の識の行相極めて明了ならず。違と順との境相を分別(フンベツ)すること能わず。微細(ミサイ)に一類に相続して転ず。是の故に唯捨受とのみ相応す。」(『論』第三・三左)
 第八識の働きは明らかではない。自分の思いに違うこと、自分の思いに適うことの相を分別する、そういう働きは持たない。この識は、入ってくるものはすべて受け入れてしまうからである。微細であり、一類であり、相続して、寝ても覚めても阿頼耶識の中で働いている。このような理由から阿頼耶識は捨受である。
 三受門に約して五つの理由を示しています。『述記』によりますと、
  一には極めて明了ならずば是れ捨受の相なり。若し苦楽受ならば必ず明了なるが故に。此れが中に憂と喜とは苦・楽の中に入りたり。三受門に依るを以て憂・喜を言はず。
  二には違(苦境)と順(楽境)との境相を分別すること能はず。中容の境を取る。是れ捨受の相なり。若し是れ余の受ならば順と違との境を取るが故に。
  三には微細に由る。若し是れ余の受ならば行相必ず麁なり。
  四には一類に由る。若し是れ余の受ならば必ず易脱しなむ。此れ(第八識)が行相は定まれり。故に一類を成じぬ。
  五には相続して転ずと云う。若し是れ余の受ならば必ず間断有りなむ。此れは恒に相続す、故に唯捨受とのみなり。
 と。
 
 説明しますと、
 第一の理由は「此の識は行相極めて明了ならず」。つまり、行相は能縁の見分のことです。『本頌』第三頌の一頌半の「不可知執受 処了」。「執受」と「処」が所縁の相分ですね。そして「了」が能縁の見分、これが行相です。そしてですね、執受と処と了は不可知である。まず初めに能縁の行相の働きは極めて明らかではない。浅い心ではないといっているのですね。私たちが観察できるようなものではなく、極めて深い心であるから、はっきりと阿頼耶識の働きを見ることは出来ない。
 第二の理由は「違と順との境相を分別すること能わず」。ここは、所縁の境、相分について、第八識の見分は、所縁の違・順を分別しないことをはっきりさせているわけです。つまり、違は自分の思いに違うこと、順は自分の思いに適うことですが、阿頼耶識は、違・順の境の相を分別することはしない。阿頼耶識はそのような力を持っていないのです。すべてを受け入れてしまう。私の行為のすべてを阿頼耶識は受け止めている、為したこと、思っただけのこと等を取捨選択することなく、みんな受け止めているのですね。阿頼耶識はただ縁じているだけで、善悪の分別とか、苦楽の分別をするのは第六意識なんですね。
 第三の理由は「微細(ミサイ)に由る」。非常に細やかな心であるということ。若 し苦楽があれば、行相は麁(ソ。あらい)である。阿頼耶識は微細な心である。
 第四の理由は「一類に由る」。一類は、同じ性質のものは性質を変えることなく続いていく。若し性質が変わるのであれば一類ではない。阿頼耶識は捨と云う性質を変えることなく、行相は定まっている。
 第五の理由は「相続して転ず」。阿頼耶識は持続している。間断することがない。一類と関係しますが、一類相続なんです。苦楽があれば、変化しますから、間断があって相続を保つことはできません。
 第七末那識のことは今は伏せておきますが、第八阿頼耶識には間断がない、恒相続である。第六意識には間断がある。間断があっても阿頼耶識は恒に相続して動いている。ですから眠っているときも、目覚めている時も阿頼耶識は動きつづけて、私の一挙手一投足をすべて引き受けているのです。
 このような理由から、「唯だ捨受とのみ相応す」。と云われています。阿頼耶識の性質は変化しない。私を私の根底から支えつづけているのは一類相続している静寂の感情である捨受とのみ相応するのである。
 苦楽を超えて、苦楽の感情を「捨」として受けてめている阿頼耶識が私を支えているということは大変大事なことを教えていると思います。


 

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