唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第八倶転門 (1) 随縁現 (1)  

2016-11-28 22:02:47 | 第三能変 第八倶転門
  

 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。
 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。
 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。
  ―  第三能変 第八倶転門 (1)  ―
  ―  随縁現 (1)  ―
 「随縁現と云う言は、常に起こるものに非ずと云うことを顕す」(『論』第七・九左)
 (意訳)五識は縁に随って縁ず、ということは、常に現起するものではないということを顕しているのである。
 「五識は縁に随って方によく現起す。これは常に生ずるもにに非ずということを顕す。縁は恒にあらざる故に。第六意識もまた縁に随って方に現ずと雖も、時に縁は恒に具す。故に言わざるなり。・・・この五識は多く間断するに由るが故に問、何者を縁とするや」(『述記』第七本・四十八左)
 五識は常に起こらない、ということは、縁に随っていろいろなことが起こってくるということですね。縁がなければ起こらないが、縁が起きると様々なことが起こるということになります。いつも働いているというわけではないということです。「何者を縁とするや」と。どんな縁があれば起きるのか、という問が出されます。
 内に種子をもっているけれども、縁がなければ現起しない、種子だけで生ずるのではなく縁をまって生ず、と。
 『歎異抄』第十三条の親鸞聖人のお言葉が心に響きます。「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(真聖p633)と。
 「縁」の問題は次の科段で述べられますが、ここは内に阿頼耶識を種子とし、外には縁を待つ。縁を待って生ずる、といわれています。
 「縁と云うは、謂く作意なり。根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
 「眼識は肉眼に依るは九の縁を具して生ず。謂く空と明と根と境と作意と五は小乗に同なり。若し根本の第八、染浄の第七、分別倶の六、能生の種子を加えるならば、九の依をもって生ず。若し天眼ならば、唯、明、空を除く。
 耳識は八に依る。明を除く、
 鼻舌等の三は七に依る。また空をも除く。至境を方に取るを以ての故に。第六識は五の縁に依って生ず。根は即ち第七なり。境は一切法なり。作意と及び根本の第八なり。能生は即ち種子なり。五の依を以て生ず。
 第七、八は四縁を以て生ず。一に即ち第八、七識なり。倶有依となる。根本依なし。即ち倶有依となすが故に。二に随って取るところを以て所縁と為す。三に作意、四に種子なるが故に、四縁あるなり。
 或いは説く。第八は四に依る。第七は三に依る。即ち所依を以て所縁と為すが故に。これは正義による。
 然るにもし等無間縁をとれば、即ち次の如く、十、九、八、六、五、四の縁を以て生ず。即ち所託の処をみな名づけて縁と為す。故にこの別あり。故に論に等という」(『述記』第七本・四十九右)
 『述記』の説明をまとめますと、次のようになります。
•眼識(九) 空・明・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•耳識(八) 空・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•鼻識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•舌識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•身識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•意識(五) 〇・〇・根・境・作意・ 〇・ 〇・ 第八・種子
•末那識(三)〇・〇・根・〇・作意・ 〇・ 〇・ 〇 ・種子
•阿頼耶識(四)〇・〇・根・境・作意・〇・ 〇・ 〇・種子
  深浦正文『唯識学研究』下・p336より引用
 前五識は縁がなければ起きない。縁あれば起こり、縁なければ起こらないということですね。条件が整わないと働かないのです。例えば眼識ですと、九つの条件が整わないと眼の働きは作用しないということです。条件が整えば、否応なしにはたらくのです。空とは空間です。明は明るさですし、根・境・識が和合してものを見るという動きが出てきます。そして、作意です、見ようとする心の働きです。それがなにものであるかを判断するのが第六意識です。その第六意識は深層の第七末那識を所依としていますし、第七末那識は第八阿頼耶識を所依・所縁としてわたしの意識構造が成り立っている。
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 「虚仮はなれたるこころなり」
「虚仮」というのは、真実に対しての虚仮です。「真実の信心なり」という「真実」という言葉から「虚仮はなれたるこころなり」と。虚仮というのは何かといえば、ふたつならぶことであり、ふたつならべるこころなのでしょう。それを虚仮、と。その虚仮を離れたこころ、だからふたつならぶこともない。二人が並ぶということもないわけですね。一人で充分という意味になるわけです。
「『虚』は、むなしという。『仮』は、かりなりという」
「虚は、むなし」。先程申しましたように、むなしい。他の人と並べての一人はむなしいですね。多くの中の一人というのはむなしい、それから「仮は、かりなり」という、一人というその一人、一つというその一つは、二つ、三つと数えられるうちの一つのことですね。ですからそういう場合、相対的にいえば、一というのは二に対する一と。これは仮なのですね。その場合は仮という意味が、出てきます。絶対という意味では、一ということもいえないわけです。ですから一という時には、二、三、四に対する一ですから、仮という意味があるわけですね。二に対する一は仮なんです。二に対しない一、これが「実」なのですね。二に対しない一というのは、もはやそこに二、三、四、五というものはない。どこへいったのか。どこへもいきはしないまま、仮であった、と。二、三、四も仮であったということです。仮に立ててあったのだという時には実の中に皆おさまって、実と一つになってしまうわけですね。」(蓬茨祖運述)
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