唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (1)

2014-02-10 22:41:46 | 唯識入門

 今週の金曜日14日が今月の定例(八尾市本町。聞成坊様にて午後三時より開講)になりますので、今週は、煩悩の心所についての記述は休ませていただき、第二頌第四句の、一切種子識(因相門)について論究させていただきます。

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 (因相)

 「此れ能く諸法の種子を執持して失せざらしむるが故に一切種と名づく。」

 阿頼耶識は、諸法の種子を執持(維持)し、失わないので一切種と名づける、と。執持を維持する、と意訳しましたが、定義としては「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」といわれています。注意しなければならないことは、執と有りますから執着のことと間違いを起こしやすいですが、執着のことではありません。

 阿頼耶識の中に蓄えられた種子、一切の経験の果を因として蓄えられた諸法の種子を失わないで持ち続けていく、過去・現在・未来に連続していく過程で、因が果となり、果が因となって現行していく、この面を捉えて因相、一切種子識と名づけられているのですね。

 ですから、自相・果相・因相という三つの側面は、「今」の自己の存在の在り方を決定してくるという大事なことを教えています。

 種子生現行・現行熏種子という、種子が因、現行が果、現行の果が因となり、新たな種子を熏習するという構図です。現行の果から、どのような種子を植え付けるのかが問題になってくるのでしょうね。これが因相を説く課題となります。種子を熏習するとはどういうことなのか、『選註』本ではp31~p38まで論究がなされます。一切ですからね、捨てられるものはないもないのです。すべてが経験されたものとして蓄積され、熏習されます。因は多種多様です。果はすべてを引きうけて現在しているのですね。問題は、身は引きうけているが、引き受けられない自分が居るということでしょうね。こういう問題を問いつつ、種子論から学んでいけたらいい、と思っています。

 種子は、熏習と深い関係をもった概念ですね、熏種子という。善悪業果という過去を背景に持って、今新たに種子を熏習して、未来を切り拓いて、未来をどう開き規定していくのかは、今どのような種子を植え付けていくのか、そういう無限の可能性をもったものが一切種として現されているのではないかと思います。

 「此を離れて余の法は。能く遍く諸法の種子を執持すということは得可からざるが故に。

 第八阿頼耶識を離れて余の法は、ということです。種子は部派の経量部でも説いているのですが、部派は第七識・第八識を説きませんので、他宗を簡んで、諸法の種子を執持するのは第八識のみであるとあきらかにしているのです。

 「此は即ち初能変の識に有ら所る因相を顕示す。」

 一切種とは、初能変の識の因相を顕しているのである、と。

 「此の識の因相は多の種(シュ)有りと雖も、種(シュウ)を持すること不共なり。是の故に偏に説けり。」

 因は、六因とは十因が数えられ、多くの種類があるといわれていますが、第八阿頼耶識の中に蓄えられた種子が根本原因となり、諸法の種子を執持して失わないので、「多の種有と雖も」とは不共(フグウ・共通ではない)である。

 「初能変の識の体相は多なりと雖も、略して唯だ是の如き三の相のみ有りと説く。」

 第八識の体相は多であるけれども、略して説けば、自相・果相・因相のみである。第八識の三相は、三位によって立てられたといわれていますので、十分吟味する必要があると思います。

 


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